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そして、空き家や拒否された9軒を除いた計12軒の家を対象に実測調査を行い、図面を作成した。その結果得られた平面図、及び、彦根市ですでに調査された町家の家屋をもとに、歴史的背景も含めて、立花町の特徴を分析するとともに、今後の町なみ形成のあり方に対して考察を行う。

都市の高密化・高層化がはじまってすでに久しい。このような都市化を受けて、マンションに代表される高層住宅が脚光をあびたが、高層住宅に内在する問題、特に上層階居住者の安全性・心理的安全性・防犯性・育児性などの面からの検討が必要とされており、これにともなって低層高密居住の要請が高く・タウンハウス形式の低層集合住宅に関する研究・計画・建設も活発化してきた。

低層高密居住に関してわが国は、すでに永い歴史をもっている。一般に「町家」とよばれる伝統的な庶民の都市居住がそれである。町家は古く平安時代初期、先進地域であった京の都において店家「坐売物舎也」としてその姿をみることができる。

室町時代には、木連格子、ノレン、店棚をもつ特徴ある町家の姿がみられる。しかし、中世までの町家は間口二間、奥行二間程度の小規模なものであり、トオリニワに沿って一室ないし二室のミセ、オウエからなる小さな住居であった。また町家の背後は共同の空き地になり、井戸・便所・畑などがしつらえられ、サービス・ヤード的な役割をもっていた。

江戸侍代にはいると、都市経済力の上昇にうらづげられて町家の規模も拡大し、宅地の個別専用化が進行していき、同時に都市民の階層分化も激化して、上層の大型町家(巨戸)、中層の中型町家(中戸)、下層の裏長屋(小戸)まで大小の町家が出現する。また同時に分業化の進行は、街路に向って店を開ける必要のない都市生活者を発生させ、シタモヤ(仕舞屋)があらわれる。

本来、店舗や仕事場をもつ併用住宅として発達した町家も、専用住宅化するものがあらわれる。

こうした都市化の過程のなかで、京の町家はトオリニワに沿って室がならぶ、間口が狭く奥行の深い町家特有の住空間を定型化していく。

江戸時代中期になると、すでに間口長さと相関して列構成(室が一列か二列か)、奥行長さと相関して段構成(室が奥行方向に何段か)が完成されており、また分棟の手法によって開放された小空間を導入している。

京町家の平面形式は列と段による列段構成を住空間の構成原理とし、適宜開放された空間(ニワサキ、ウラニワ・ウチゲンカンなど)を分散的に導入する配置手法を特徴としている。このような列段構成による町家住空間は明治、大正、昭和戦前期まで京都の伝統的な町家・都市住宅として受けつがれてきた。

こうして京の町家は、全国各地域にひろくみられる町家の規範として歴史的に先導的な役割を果たしたのであったが、今日各地域に残存している町家は、町家としての共通点を多く共有している一方、またそれぞれの地域の風土性をも色濃くとどめている。京の町家をモデルにしたとしても、おそらく近世以降の地域的な町家の発展過程において、多かれ少なかれ地域の固有性を獲得している。

近世において領国経済を基盤として地域的発展が全国各地域の城下町、宿場町、門前町、港町など人口の集中する居住地では必然的に町家型の住居が発達してきた。

3-0-3 町家とは

町家は、商人が、はじめは振り売り(商品を天秤棒などにかついで、移動しながら売り歩く形態)から、立ち売り(道ばたなどに商品をならべて売る形態)へ、さらに座売り(小屋がけなどして商品を売る形態)へと、徐々に定着性を高め、店を建築化し、永続性を増やしていくなかで、その家(舎)として町の中に登場する。

中世には、トオリニワに沿ってミセノマとダイドコだけの、2室型の住宅となる。江戸初期に、その奥にザシキを加えて、3室型の住宅に発展し、やがて格子などの表構えをもつようになる。

こういった町家の形式は、江戸時代、城下町や港町など、都市が発展するにつれ、その都市住宅である町人の住宅として、日本中にひろまっていった。

かつて、江戸時代においては、身分に相応して住宅の様式が決まっていた。武士は武家屋敷に、農民は農家に、町人は町家に住んでいた。町家は都市の商職人の住宅なのである。従って、町家は、かつての町人町にたちならぶ家々の型である。もちろん、明治になって、だれでも、どこにでも、好きな型の家を建てられるようになったが、昭和戦前までは、町人町では町家建てとするのが一般的であった。これはそういう規制があったというのではなく、町の共同体が生きており、町家という家の型が、都市の商職人の生活様式ときちんと一致していたからなのである。

 

 

 

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