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奨励賞

 

観光立国への道

-オーストラリア観光省創設に至る歴史的変遷-

 

朝水宗彦

 

要約

 

オーストラリアは日本人にとって最も人気の高い観光地の一つである。1990年代後半には、年間80万人もの日本人観光客が訪れ、特に新婚カップルにとってオーストラリアはハワイと首位を争うほどの人気ぶりである。このように、観光大国というイメージの強いオーストラリアであるが、この国で観光関連の省が設置されたのは1972年のことである。つまり、イタリアやギリシアといった国々と比べると、オーストラリアの観光政策は後発であった。本稿では、観光面で後発国であったオーストラリアが、どのような経緯で観光政策を行うようになったのか、観光形態の社会的背景に触れながら、観光・レクリエーション省の設立から1991年の観光省設立に至るその史的変遷について述べる。

オーストラリアの観光形態は時代によって異なっており、違いはその当時の社会背景を反映してきた。交通手段の面から見ると、道路や鉄道網の整備は国内観光を促し、航空網の整備は海外からの観光客誘致に有利に働いてきた。社会的な面から見ると、1950・60年代の経済成長はオーストラリア人観光客の増加に寄与し、1956年のメルボルン・オリンピックは海外からの観光客誘致の大きな契機となった。

さらに、1973年10月の第一次オイルショック以降、先進諸国は省資源化へ向かったため、外貨収入の少なからぬ部分を鉱産物資源の輸出に依存していたオーストラリアでは、サービス産業中心の社会構造ヘシフトしていった。その中で、観光産業は劇的な成長を遂げ、1990年代には外貨収入の首位を占めるようになった。ただし、オーストラリアの観光産業が国際的な規模で発展したのは後発的だったため、オーストラリアにおける劇的な観光産業の発展には連邦政府や地方自治体による観光政策の役割が重要であった。

オーストラリアにおける観光政策の変遷を見ると、ホイットラム政権、フレーザー政権、ホーク政権の観光政策にはそれぞれ特色がある。連邦政府における観光関連の大臣や長官の肩書き、および観光関連省庁の機構を見ると、ホイットラムやホークの様に、労働党政権では観光政策を拡大し、観光を余暇活動や福利厚生の環として捕らえているようである。他方、フレーザーの様に保守政権では観光を産業として捕らえ、経済活動などある分野に特化した観光政策を行っている。

北部観光の拠点がタウンズビルからケアンズへ移ったことなど、1990年代とは若干異なっているが、オーストラリア観光の枠組みは1972年に観光・レクリエーション省が設立されたころから垣間見れる。オーストラリア観光が急成長した1980年代には、連邦政府のみならず、地方自治体も独特の観光政策を行うようになった。同時期における連邦政府の観光政策は多面的であり、多様化した観光形態にうまく対応したものであった。その後、外貨収入の首位を占めるまで発展した観光産業はキーティング政権時に全盛期をむかえ、観光形態はより多彩で複合的な様相を示すようになるのである。

 

 

 

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