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●ヘレニズム・ローマ時代(334B.C.〜395)

絶大な権力を持ちたペルシャであったが200年しか続かず、アナトリアは若き英雄アレクサンダーの支配下に入る。彼は、ギリシャ、エジプト、アジアにまたがる大帝国を建設し、その死後帝国は彼の将軍たちによって分割された。その一つペルガモン王国は、アナトリアの文化・経済の中心となり栄えた。当時じわじわと力をつけていたローマはここを足掛かりとしてアナトリア全域を支配していった。エフェソス、ペルガモン、ディティム、シデなど多くの都市にローマ帝国時代の遺跡があり、当時の繁栄ぶりがしのばれる。

●ビザンティン帝国時代(395〜1071)

330年にローマ帝国のコンスタンティヌス帝はビザンティウムに遷都を行い、町の名をコンスタンティノープルと改めた。以後、ここイスタンブールは、ローマ(ヨーロッパ)と東方(アジア)とを結ぶ結節点としてますます発展する。395年には、ローマ帝国は東西に分裂、アナトリアは東ローマ帝国の一部となった。時とともに帝国からローマ的色彩は去り、代わりに帝国は東方的な色彩をまとうようになる。そしていつしか東ローマ帝国はビザンティン帝国と呼ばれるようになった。帝国は、ユスティニアヌス帝の時最盛期を迎えたが、8世紀にイスラム軍の侵入を受け、次第に衰退していく。周辺を脅かしていたセルジューク朝に1071年のマラズギルトの戦いで破れ、以後アナトリアにトルコ族が入っていく。この時代のビザンティン様式の代表は、イスタンブールのアヤソフィア寺院で、537年に完成したこのギリシャ正教会の聖堂は、イスラム寺院から博物館へと変えられ、変遷の歴史を物語っている。

●セルジューク朝、オスマン朝時代(1071〜1922)

中央アジアに興ったスンニ派イスラムのトルコ系王朝であるセルジューク朝は、当時メソポタミア一帯にまで力を伸ばしていた。その一派であるルーム・セルジューク朝が首都をコンヤに置く。ここにはメヴラーナ教団の祖ルーミーの基がある。コンヤの他、神学校のあるカイセリや数多くのジャミーや神学校の残るエルズルムなどにもセルジューク様式の遺跡は多い。セルジューク朝の内紛の中でオスマン=ベイは勢力を増し、1326年にブルサを攻めそこを首都とした。

後世に世界帝国となるオスマン朝はここから始まる。オスマン朝はモンゴルのティムールに破れ一時滅亡するがまもなく復興し、1453年にはコンスタンティノープルを占領、ビザンティン帝国を滅亡させる。同時にコンスタンティノープルはイスタンブールと名を変え、エジプト占領後、オスマン朝スルタンはイスラム世界の指導者であるカリフを名乗る。16世紀のスレイマン大帝の時代に最盛期を迎え、その領土はバルカン、東欧から北アフリカや西アジアにまたがる広大なものとなり、ヨーロッパキリスト教世界を震撼させた。しかし彼の死後、帝国は衰退に向かい、度重なる戦争にことごとく負け、領土を著しく失った。19世紀末からエジプトをはじめギリシャ、ブルガリアなどバルカン諸国が独立し、第一次世界大戦ではドイツ側につき敗戦国となる。

国内の混乱の中、ムスタファ・ケマルは革命の火の手を上げる。彼は列強による分割・植民地化の危機からトルコを救い、1923年10月29日にトルコ共和国を成立させ、初代大統領となった。アンカラに首都を移し、政教分離、ラテン文字の採用などの大改革を行い、近代化を進めた。ケマルは“アタトゥルク(トルコの父)”と呼ばれ、現在も国民に敬愛されている。

 

 

 

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