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2. トルコの観光と観光資源

 

(1) イスタンブールとマルマラ海周辺地域

イスタンブールを中心としてヨーロッパ大陸側トルコと、マルマラ海周辺を含む地域である。イスタンブールはオスマントルコ帝国の首都であり、その以前は東ローマ帝国の首都であった。これら歴代帝国の遺跡や文化財が数多く残されており、世界有数の観光地となっている。

イスタンブールは紀元前7世紀、ギリシャの植民市「ビザンティウム」として、歴史の幕を開けた。330年、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が帝国の首都をローマからここに移し、名前を「コンスタンティノープル」と改めた頃から街は急速に発展し、395年のローマ帝国分裂後も東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の首都として約1000年の間存続する。6世紀のユスティニアヌス1世の時代にその黄金期を迎え、ビザンティン建築の最高峰と賞される聖ソフィア大聖堂(アヤ・ソフィア)も建設された。その後、東方のオスマン・トルコ、西方の十字軍の圧力により帝国は衰退、最後の砦となったコンスタンティノープルも1453年オスマン・トルコのメフメット2世の攻撃により陥落し、名をイスタンブールと改めイスラム帝国の首都として新しい歩みを始めるとこの時代に聖ソフィア大聖堂を始め多くのキリスト教会がモスクに改築された。その後20世紀に入りトルコは列強強国による分解の危機にさらされるが、トルコの父ケマル・アタチュルクがこれを回避し、1923年、トルコ共和国が成立した。

新しいトルコは首都をアンカラに定めたため、首都としてのイスタンブールは幕を閉じたが、その後もトルコ最大の都市として発展を続けている。

1] トプカプ宮殿

1460年メフメット2世によって造営され、オスマントルコ・スルタンの代々の居城となってきたもので、旧市街のボスポラス海峡を見下ろす高台に建てられている。敷地70万m2、全長1,400mの城壁で囲まれている。その後のスルタンが増築を重ね今日の姿になった。宮殿内の見所としては、ハレム、宦官の部屋、スルタンの調理場、宝物館等がある。ハレムは公開されていないものも含めて436の部屋と10のハマム(蒸し風呂)等があり、常時400〜500人の住人(女性)が住んでいた。宦官達は主にエジプトからさしだされたヌビアの出身者でハレムの警備が任務であった。

かつて厨房だちた所は陶磁器の展示室となっている。中国宋・明代10〜18世紀の白磁や青磁、日本から渡来のものは18〜19世紀の伊万里焼きが多く、トプカプ宮殿保管の12,000箇の内約2,500箇が展示されている。これらの陶磁器は、モスクの内壁を飾るイズニックタイルの技法や色合いに影響を与えていると言う。奈良・正倉院に保管されている宝物の中にある鳥獣花昔円鏡に酷似している鋼製の鏡(中国唐の時代)が展示されている。これらの多くは、陸や海のシルクロードをたどって運ばれたもので、シルクロードの持つ文化の伝搬の役割を強く感じさせる。スルタンセリム1世(1512-1520)がエジプトを征服したときも中国陶磁器を多く持ち帰ったと言われる。

宝物館には歴代スルタンの集めた宝物が並べられていて、観光客の羨望の目を集めている。見学者の多い中でもここはいつも人であふれている。トプカプ短剣は重さ3kgという世界最大のエメラルドがはめ込まれていて、ショーケースの中でグリエンの輝きを見せ、見る人の目を引く。エメラルドはイスラム世界で貴重な宝石であり、スルタンの権力の大きさを象徴している。スルタンの着衣の変遷も展示してあるが、これなども中国の影響が強い。

 

 

 

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