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◎吉田史学の遺産◎

早稲田大学の中での東伍は学生から慕われる人気教師の一人だった。髭面の彼に学生達が尊敬を込めてつけたあだ名は「猛獣」。かつての「嬢子さま」の面影はもうどこにもなかった。

一九一七年(大正六)夏ごろから早稲田の学内で高田早苗・天野為之両派の学長後任問題をめぐる確執抗争が起こった。当時の学長天野の教育姿勢に不満を持つ少壮教授・講師陣が、任期切れとなる天野の退陣を策したが、天野は留任の意思を表明した。このため反天野派は高田を担いで対抗、大隈重信に働きかけて天野に辞職を勧告。紛争は全国の校友、学生の一部が天野派についたことで激化し、一部学生による学内占拠や授業放棄などの混乱があった。東伍は同年九月から同校の維持員ならびに理事に就任し、他の新理事とともに紛擾の収拾にあたる。両派から一目置かれていた彼は、議長役的な立場に立たされたが、紛糾する議論の中、東伍の采配は見事だった。「吉田東伍という人物は、ただ七面倒くさい学問のことばかりやっている人かと思ったが、意外に彼は政治性も持っている」学生、同僚の多くはそう感じた。

この騒動がようやく収まるころ、年の瀬を迎えて彼は身体の不調を訴えるようになる。酒仙と言われた東伍が「どうも酒が美味くない」と盃をおいてしまうのである。健康の衰えは誰の目にも明らかだった。昼食にカステラ数切れだけというような日もあった。しだいに著述も休みがちとなり、大学の講義や学会の講演も欠席するようになってしまう。それでも医師の診察は頑として拒み続け、薬さえ服用しようとしなかった。

「外部に出来たデキモノでさえ中々全治しないのだから、内部のことなんか、医者が診たって分りはしない。ナマ半可のことを言われると士気が沮喪するからいけない」

そんな彼が、ようやく家族や友人等の説得を聞き入れ、転地療養を了解したのは、一九一八年(大正七)一月下旬のことだった。

千葉県本銚子町飯沼観音前、利根川畔の吉野屋旅館に大学生の長男、小学生の三男を伴って到着したのが一月一九日の晩。ガス燈の下がる三階の部屋からは家並越しに粉雪の舞う利根河口が見渡せた。二十日、一日中火鉢に手をあぶりながら利根の流れに見入っていたが「三学期も始まっていることだから、もう帰ったほうがよかろう」と夕方の汽車で息子らを帰京させる。翌二十一日午後病状が急変し危篤。重い尿毒症と診断される。はじめ旅館の主人らは東伍の質素な身なりと宿帳の「教員吉田東伍」の記載から、どこかの田舎の小学校の先生だろうぐらいに思っていたらしいが、同宿の客から早大の著名な教授であると聞かされて一変、大騒ぎとなった。一月二十二日、午後七時十五分、人事不省のまま、東京から駆けつけた夫人や長男が見守る中、五十三年と九ヵ月の短い生涯を閉じた。

歴史地理学者吉田東伍は生涯に、単行著作二十種四十五巻、論文三百数十編という膨大な著述を残した。彼の最初の発表論文が一八八七年のものとされているので、一九一八年に没するまでの三十一年間、単純計算でほぼ一ヵ月に一編の著述を次々に発表し続けていたことになる。

 

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栃尾秋葉神社にて。右端東伍、左から二人目義彦(1916年9月)

 

 

 

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