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田口への批判論文が掲載された『史海』第三巻の表紙

 

その頃、わが国の論壇では一種の歴史論ブームが起きていた。エコノミストぞ歴史家の田口卯吉はその中心人物で、自ら歴史雑誌『史海』を発行してほぼ毎号「輪切り体」と称する独特の歴史人物論を展開、ブームを牽引していた。

一八九一年(明治二四)七月、その雑誌に、田口の史論には誤りがあると批判の矢を放った人物が登場する。「北海道 蟷斧生 吉田東」すなわち、北辺の青年、吉田東伍二七歳である。

田口は東伍の視点の鋭さに驚き、「好敵手」を得たと応戦の姿勢を示す。大物学者からの思わぬ反応を得て胸を躍らせた東伍は、矢も盾もたまらず北海道生活を切り上げる決意をする。

彼の北海道時代は、そもそも渡道目的からして不明、渡道後の正確な足取りも追えないなど未解明な点が多い。本人自身、どういう理由からかその後もこの時代のことについては多くを語ろうとしなかった。彼の日記には、道庁美国支所の雇い書記となり、山林や魚場の巡視をしながら遺跡の踏査に出かけた様子などが断片的に記されているだけである。

一八九一年(明治二四)十一月、 一年二ヵ月続けた北海道生活に見切をつけ帰郷。翌月にはまたしても単身で東京に向かう。

上京して最初に身を寄せたのが、読売新聞主筆、東伍とは姻戚関係の市島謙吉(春城)の家だった。市島は東伍より四歳年上で、東伍の長兄とは立憲改進党の盟友、その長兄の妻と市島の妻が姉妹という間柄で、市島が出京するまではひんぱんに往訪があった。

市島は早くから東伍の学才の非凡さに気づいており、かつて東伍に一つの予言を与えていた。「君は田舎にいるのは惜しい。若し君にて都門に出たならば、恐らく三年を出でずして博士となることが出来るであろう。自分は不肖ながら三年を出でずして君を博士にして見せる」その後東伍は、四五歳で文字博士になっているから、三年という期限はおくとして、市島は見事にその将来を言い当てていたことになる。

その市島の紹介で読売新聞へ入社した東伍は、直ちに新聞紙上で「落後生」の匿名を用いて『史海』田口卯吉批判を再開する。大物歴史家田口と謎の人物落後生の論戦は読者の興味を引き、二年余りも続いたが、東伍の筆鋒はしばしば田口をたじろがせた。そればかりか東伍の扇動で田口批判者は号を重ねるごとに多くなり、結局田口は「史眼文章ともに実以て恐れ入りたり、横槍にても、豎槍にても最早答弁の気力を失ひたれば、十分に衝き立てらるべし、我が陣はメチャメチャとなりても構はず」(史海十一巻)と音をあげてしまう。

一八九一年(明治二四)、帝国大学教授の久米邦武が「神道ハ祭天ノ古俗」と題する論文を『史学会雑誌』に載せた。日本の神道は、宗教というよりも天を祭る古い習わしの一つぞあるという論旨である。発表時には問題とならなかったが、翌年田口卯吉がこれを『史海』に転載。たちまち官僚学者や神道家からの激しい攻撃にさらされ、久米は自説の取り消し広告まで出させられ、大学を追放されるという事件が起きた。世に言う「神道ハ祭天ノ古俗」事件である。

事件を目の当たりにした東伍は、新聞紙上で久米の立場を弁護するキャンペーンを張り、また、史海誌上で論敵としていた田口との論争を一時休止し、ともに久米の正当性を主張した。

一八九二年(明治二六)に刊行された東伍の最初の単行本『日韓古史断』は、この事件の当事者、久米の校閲を経て出版されたものだった。東伍はその序文で「討ち死にするも覚悟」でこの本を書いたと記している。

学問の自由が脅かされたとき、その研究者がどのような行動をとるか。それに屈して信念を曲げてしまうか。それとも、信念を貫き学者の魂を守り通すか。東伍はこの事件を含む近代史学史上の三大筆禍事件と呼ばれる弾圧事件のうち二事件に関わりをもっており、それぞれ思想・言論の自由の擁護者として重要な役割をはたしている。おおらかな気持ちで自由に史実を追及するという、彼の健全な在野精神に根ざした当然の行動であろう。

 

 

 

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