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一八七四年(明治七)五月、一〇歳の東伍は、英語を学ばせたいという父や兄のすすめで、親元を離れて新潟町(現新潟市)にあった新潟学校に入学する。その頃、開港場の新潟は全国の中でももっとも文明開化のすすんだ町の一つに数えられていた。県営の新潟学校は、規律のきびしい英語中心の学校だったが、東伍はこの学校で、英国人教師から地理、綴宇、図画などを学んだ。

一八七六年(明治九)、一ニ歳の時、新潟学校から官立の新潟英語学校に移り寄宿舎生活を送ることとなった。この学校は政府の開化策にもとづいて、全国に七ヵ所開かれた外国語専門学校の一校で、外国人教師などによる授業は当時としては最先端の内容を誇るものだった。寄宿生は、華奢な身体つきではにかみ屋、寡黙な東伍を「おなご」「嬢子さま」などと呼んでいた。三十数年後の同窓会で再会した彼らは、東伍の変貌ぶりに「女が男に変わったのだから判るはずがない」と大笑いしたと言われている。

一八七七年(明治一〇)に新潟英語学校が新潟学校に合併されると、その中等部に移籍したが、その年の暮れに退学してしまう。退学の理由についてはよくわからない。ともかく一三歳と八ヵ月。彼が受けた一連の学校教育としての「学歴」はここでピリオドが打たれることになる。

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東伍が在籍した小学校の月謝簿

 

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東伍が少年時代に摸写した二十四輩順拝図会所収の「焼栗の林」図(右)

 

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英語学校のクラスメート
(中央M・P・ターベル先生、後から二列目左端が東伍)

 

 

 

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