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東伍は後に「学校はわかりきったことしか教えてくれないので行く気がしなかった」と語り、出身を尋ねられると「私は越後の百姓の出だ」、学歴を問われて「図書館卒業だ」と答えている。

自宅に戻ると、家業の農業や戸長役場、郵便役所を手伝いながら、家に伝わる文書や書籍を読みあさる毎日を送った。叔父や兄が地元の教員などと組織した読書サークルにも進んで参加した。

ところが東伍の読書欲は度を超えており、見かねた家族が「何よりも人間というのは衣食が先だ」とたびたび干渉したもののいっこうに効果はなかったらしい。 一時は、漢詩づくりにも夢中になり、「詩を作るより田を作れ」と注意されても、「死んでもやめない」と言うありさまで、さすがの父木七も頭をかかえてしまった。

 

◎郷土誌をまとめ上げた青年時代

一八八一年(明治一四)、東伍は僅か一七歳にして安田の郷土誌の執筆をはじめる。題して『安田志料』。彼はこれを十年間かけて纏めあげ、二六歳の時に新潟県知事あて進薦した。

その未清書原稿は、美濃紙の木版手刷り、四百字と七百字詰めの二種類の自家製原稿用紙六十数枚と彩色挿図数葉が袋綴じされたものである。全文細字の毛筆で記され、継ぎはぎや切り抜き、付せん紙の貼付、見え消しによる訂正など、丹念な推敲のあとがうかがえる。そしてその姿は、後に彼の主著となる『大日本地名辞書』のそれと見まごうばかりによく似ている。

『安田志料』の冒頭には地理的条件や人びとの心情によって定まる村里の境界や国境は大切にすべきであり、これを無視した行政区の分割は歴史の改ざんにつながると言う趣旨の記載があるが、その主張は地名辞書の汎論でも繰り返された。土地と人との固有の関わりから歴史をひもとき、地域の自然とそこで生まれ育った人間の文化に深い関心をよせるという、歴史地理学者吉田東伍の学問の淵源とも言える内容をもった小冊子であり、少年時代の強い向学心と愛郷心とが見てとれる。『安田志料』で用いられた七百字詰め罫の自家製原稿用紙は、地名辞書をはじめ他の著書の執筆でも用いられており、なぜか彼はこの用紙にこだわり、晩年まで利用し続けた。

一九歳、独力で小学校教員学力試験に合格した東伍は、阿賀野川対岸の大鹿小学校の教員になった。

一八八四年(明治一七)、新潟学校師範部に入ったがいくばくもなく退学。十二月には大鹿新田の小地主吉田家へ婿養子に入った。旗野姓から吉田姓へ。東伍二〇歳、妻のカツミはまだ一六歳だった。

翌年春、一年志願兵として宮城県仙台兵営に入り、訓練の合間をぬっては旧藩校養賢堂の書籍館通いを続け、長年の読書欲を満足させた。満期除隊して帰郷すると生家から二里ほど北の水原小学校高等科の訓導となって再び教壇に立った。

 

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『安田志料稿本』の表紙

 

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東伍の妻、カツミ(1908年撮影)

 

 

 

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