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○庚午(昭和五)十二月十三日於新潟医科大学病院之陋室修校了、于時寒風動玻瑠窓、天将雪、義彦

新潟医大の病室で校閲を終わり未筆を置いた時、寒風がガラス窓をゆるがし、今にも雪になりそうな空模様だという。翌年満州事変が起きているわけで、日本の歴史自体がまさに雪ならんとする冬、死の病床で握りつづけた朱筆の右上がりの独特の字体は、鬼気さえ感じさせます。専門の学者に依頼し筆耕者を雇って、彼は指揮者でしたが、一字一句まで目を通して読点を打ち割付を指示した執念は、尋常ではありません。

膨大な未刊稿本のうち天正十九年までを、いずれ吉田東伍記念博物館が中心となり、『越佐史料』巻七として刊行いただけたらありがたいと思います。

谷川…『大日本地名辞書』は東伍の自筆だけですか。

渡辺…いいえ、ごく一部、二人ほど筆耕の筆跡があり、誰の字かは分かっています。

谷川…弟義彦の援助はなかったのでしょうか。

井上…少なくとも越後・佐渡についてはかなりあったのではないでしょうか。確かな証拠は乏しいですが、例えば『大日本地名辞書』に「聴濤閣雑載」からの引用がみられます。聴濤閣は高橋邸の書斎の雅称で、これは間違いなく義彦の提供でしょう。

渡辺…東伍が資料の問い合わせをし、義彦が自分の蔵書を郵送したという記録は残っています。資料の貸し借りはあったようです。

谷川…兄想いの弟で、東伍の仕事に尊敬を払っていて、献身的に協力をしたと見ることもできます。

井上…安田の近くの笹神村の地主五十嵐甚蔵も、高橋義彦よりもう少し早い時期に、越佐の歴史を編纂しようと、学者に依頼し財産を費やして、本格的に文献収集や古文書の影写などを行いましたが、発刊までには至りませんでした。その際に集めた史料も北方文化博物館に保管されています。聖籠町の千町歩地主二宮家でも、一冊刊行しただけのこれも中絶ですが、郷土史家大木金平に『北蒲原郡史』を編纂させています。

どうも昔の地主は、ある段階に来ると文芸に親しみ書画骨董を集める。その文雅の果てが歴史の編纂だったのではないかという気がします。

谷川…新潟は藩が絶対的な権力を持っているわけではなく、むしろ風土的な野史的な傾向が強いのでしょう。旗野家にある精神は吉田東伍の地誌『大日本地名辞書』に受け継がれています。中央の歴史は、藩が強調されますが、幸いにも強調しなくてもすむような土地柄でした。

 

◎十三年間にわたる『大日本地名辞書』の執筆

谷川…宮古島の人頭税廃止運動で活躍した中村十作は、西頚城郡板倉町出身(今の上越市)ですが、やはり改進党です。明治二十六年(一八九三)に宮古島へ行って人頭税廃止の運動をした中村十作らが上京した折、彼らの世話をしたのが益田義一でした。この時益田義一は読売新聞社にいましたし、市島謙吉(春城)も読売でした。人頭税廃止運動では読売が、中村十作のことを「琉球の佐倉惣五郎来たる」という大きな見出しで出し、バックアップするのです。ちょうどその頃吉田東伍も読売の記者になるのです。

渡辺…北海道から帰ってきて明治二十五年(一八九二)、二十八歳の時に読売に入社します。日清戦争の時は従軍記者でした。

谷川…そうすると、中村十作が上京して益田義一を頼った同じ時期に東伍も東京にいて、しかも読売新間の記者としていた。面白いですね。明治二十八年(一八九五)に軍艦「橋立」に搭乗して威海衛攻撃に参加しますが、この時の従軍記はありますか。

渡辺…あります。博物館に切り抜きが展示してあります。他社の新聞記者では書けない内容の記事をたくさん書いています。歴史地理の知識に裏打ちされ、実戦を見ていますから、かなりリアルな表現で書いています。それで評判を取ったという話が伝わっています。

 

 

 

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