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東伍の父、旗野木七(1829〜1881)

 

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東伍の叔父、旗野十一郎(1850〜1908)

 

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東伍の兄、旗野餘太郎(1851〜1894)

 

東伍が生まれた時、安田は新発田藩預かりの幕領でした。明治維新、戊辰戦争が起きた時、東伍は四歳です。

旗野木七は進取の精神の持ち主でした。和漢学に加えて洋学にも興味を持っていて、長男を東京に遊学させて英語を修めさせたりもしています。国学、尊王攘夷に共鳴していましたから、廃仏棄釈を卒先して、自分の宗派を曹洞宗から神道に変えてしまった。学制が布かれ保田に小学校を作る時には、木七は村民の先頭に立って設立運動をしています。

安田の地は、戊辰戦争の時、会津藩と官軍が戦ったところです。叔父にあたる旗野十一郎は、越後の勤王派のリーダーである雛田松渓(ひなだしょうけい)の弟子で、討幕運動に参加しているのです。東伍の長兄の餘太郎も雛田から漢籍を学んでいますから、旗野家は当然勤王派の考え方をする。実際に新政府軍が奥羽同盟軍を追撃しながら保田に入ってきた時、旗野邸には薩摩の幹部が陣取っています。

東伍は九歳の時、叔父が熱心に運動して設立された小学校へ入学しますが、その校長は叔父の十一郎本人でした。しかし翌年、父と兄の餘太郎の意見で、これからの世の中は英語が大切だというので、親元から離れて新潟町にあった県営の新潟学校(旧英学校)とへ転校させられる。さらに十二歳の時には全国で七つあった官立英語学校のうちの、新潟英語学校へ再転校します。ここで彼は寄宿舎に入りますが、この時に「嬢子様(じょうこさま)」と言われいじめられたという有名な話が残っています。無口なうえに体つきが、女の子のように華奢だったので、寄宿生から今でいう「いじめ」にあっていたというのです。

政府の財政逼迫があり、英語学校が衰退すると、新潟英語学校が新潟学校に合併される。東伍はその中等部に移ります。そして移った年の暮に退校してしまう。

十三歳と九ヵ月で東伍の学校教育は終止符が打たれるのです。その後家で独学の道に入っていきます。

谷川…南方熊楠は、大学予備門を中退するのだが、数学の成績はよくなかった。折口信夫は中学時代、数学で落第した。東伍も数学は好きでなかったらしい。

渡辺…『追懐録』の中で同級生がそういう事を書いています。

谷川…三人とも共通性があります。学校教育に対する充実感はなかった事は確かですね。みな独創的です。このあたりから謎の時代が始まるわけです。

 

◎郷上史『安田志料』を十七歳で書き始める◎

谷川…東伍が十八歳の時、はやくも郷土の『安田志料』を書いていますね。

渡辺…東伍が十七歳の時に『安田志料』を書き始めていますが、その年に父親木七が死んでいます。叔父や兄が組織した読書クラブに積極的に参加しているのです。目に余るほど本を読んだと。それに対して家族は干渉するのです。『安田志料』に向かう前は漢詩にも夢中になり、死んでも止められないと漏らしている。

家は戸長役場、郵便役所の業務があるのですが、机の片方に詩集を置いて、片方に仕事の

 

 

 

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