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第5節 白倉の集落と民家実測

 

大白倉(おおしらくら)集落・小白倉(こしらくら)は川西町の北端に所在し、山間を南から北に流れる渋海川(信濃川の支流)流域にある。その下流は刈羽郡小国町、上流は松代町になる。

小白倉集落の標高は200m、大白倉集落は250m。積雪は、多いときで4mをこえる豪雪地帯である。過去その豪雪はいくどか猛威をふるい、その間は陸の孤島と化すのであった。記憶に新しいものでは昭和56年の豪雪である。現在では道路の除雪がされ、交通は容易になった。

 

白倉の人口変遷

昭和45年の集落の戸数は、大白倉58戸、小白倉91戸であった。現在までの30年間で大白倉19戸・67%減少、小白倉36戸・60%が減少している。それに伴い人口も、大白倉で81%、小白倉で70%が減少している。

減少のペースを戸数グラフで見ると、3つに区分することができる。昭和45年から50年を第1次の現象とするならば、大白倉29%、小白倉25%の減少がみられ、これらが白倉の過疎化の始まりといえる。しかしながら、その後の昭和59年まではそれまでほどの勢いはなく大白倉12%、小白倉10%の減少にとどまっている。一方この時代の人口グラフを見ると戸数減少の線ほどの停滞は見られず、高齢核家族の増加を表していることになる。それまでほどの挙家離村はないが若者の流出は鈍らなかった。

そして第2次の減少は、昭和60年以降から現在にかけて大きな波となり白倉に押し寄せた。大白倉47%、小白倉41%の減少は集落全体の人口を半減させるペースであった。その結果、平成6年に白倉小学校が閉校することになる。この第2次の現象を引き起こした原因の一つに農業の衰退が考えられる。この地域の主体産業は米づくりである。米づくりが社会背景によって中山間地域での農業を抑制する結果となり、離農者と耕作放棄地を増加させ、人口流出を促す結果となったのである。

 

現状

昭和48年の人口ピラミッドは、20〜35歳代がくびれた擬宝珠形である。これを前に述べた第1次減少期のもの、平成9年の人口ピラミッドを、第2次減少期のものとして比較してみる。

まず共通点としてあげられることは、20〜35歳代のくびれである。この年代層の人口流出は、集落の将来に大きく関わる問題である。この年代層の流出を防ぐ対策を持つことは今日の白倉では非常に難しい。

次に2つの減少期の違いであるが、歴然なのは人数の差である。現在の数字は、集落を運営維持していくうえでの限界値に近いものである。もうひとつの違いは、高齢者と子供の比率である。第1次減少期と第2次減少期では全く逆の形を示している。まさに高齢化現象の現れである。具体的には、平成9年度の大白倉の65歳以上の老年人口は19人で全体の43%、15歳以上65歳未満の生産人口は23人で52%、そして15歳未満の年少人口は2人で5%である。小白倉では老年人口34人で30%、生産人口は65人で58%、年少人口13人で12%となっており、高齢者の割合の高さがわかる。

さらにその家族構成は、両白倉とも2人暮らしが高い割合を占め、次に3人暮らし、1人暮らしの割合が高く、そのほとんどが高齢者で占められている。さらに全体の60%は核家族で、次の世代を担う3代目を持つ家族は、全体の22%にすぎない。つまり、今後の人口増加は期待できず、さらなる人口減少が予想される。

 

産業

大白倉の産業(聞取りによる)

戦前からの主な産業は、炭焼きであった。炭焼きは、大白倉に限らず火鉢・こたつが普及していたため全国的に需要が高く、山村の主要産業と言われた時代もあった。大白倉の炭焼きは、明治のころから始まり、昭和12〜13年に最盛期をむかえた。材料はこの地域に多いブナの木であった。バスの燃料として高く評価されていた白倉炭も、ガソリン燃料の普及により衰退した。

またもうひとつの戦前から盛んな産業の養蚕も、高価で取引される煙草栽培が始められると、蚕と煙草の相性の悪さから衰退していった。しかし煙草も手間のかかる産業で苦労も多く、現在では行われていない。

 

 

 

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