日本財団 図書館


エ 1934年都市オプシティナに関する法令、村落オプシティナに関する法令

 

ブルガリアにおいては、1934年権威主義的刷新を唱えるグループと軍部によってクーデタが実行され、翌年には国王ボリス三世による国王独裁体制が敷かれる。こうした政治環境の変化は地方自治、地方行政をめぐる状況にも大きな変化をもたらした。1934年のクーデタ後に制定される「都市オプシティナに関する法令」、「村落オプシティナに関する法令」の登場は、オスマン統治期以来の地方自治の伝統を揺るがすものであった。両法令は基礎自治体の課題を、住民に共通の要求、利害を満たす社会的、文化的、経済的活動に参加、援助、配慮することとしており、実際の任務はこれまでとさほど変化のあるものではなかった。

しかし、これまで住民がもっていた議会議員の選挙権は大幅に失われた。議員の半数は選挙による選出が認められていたが、残る半数は教師、郡長によって指名された聖職者、医師、薬剤師、農業技術者、林業技術者、農業協同組合代表などが議員に任命された。それだけではなく、意思決定機関としての性格はなくなり首長に対して助言、諮問を行うだけの機能しかもたなくなったのである。首長は内務省の任命制となり、基礎自治体の住民から選ばれなくなった。首長は基礎自治体における中央機関の代表であり、基礎自治体において裁判官、警察長官の役割を兼ね、基礎自治体の業務全体を統括することになった。首長は議会を招集し、基礎自治体の職員の採用、処罰権をもち、命令書を発行した。住民はこの命令書に従う義務があり、違反した場合は罰金を払わねばならなかった。

地方自治の内実は失われ、あるいは形骸化し、中央政府の意思が国家の隅々まで徹底され得る、中央集権の枠組みが作られたのだった。

 

オ 人民共和国への移行と人民評議会体制

 

第2次世界大戦後、ブルガリアは君主制を破棄し共和制を取り入れた。そして、共産党が最大政党組織となり社会主義体制へと移行していく。1947年には人民共和国憲法が制定された。新憲法によって首長は廃止され、基礎自治体においては住民の直接選挙によって選ばれた代表からなる人民評議会が自治体運営にあたることになった。これを受けて1951年には人民評議会に関する法が制定され、基礎自治体における住民の代表機関として、従来の基礎自治体議会にかわって人民評議会が位置づけられた。人民評議会の活動はその管轄下にある政治、経済、教育、文化、公衆衛生、行政に関する諸問題の審議、解決と規定されたが、それはあくまでも、上部の人民評議会の監督、指導の下におかれていたのであった。

また従来、基礎自治体の執行機関として位置づけられていた首長職にかわって、人民評議会評議員の中から選出される複数メンバーによって執行委員会が設けられた。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION