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山田耕筰「あやめ」

 かくて、日本人の新作オペラのパリにおける世界初演という、当時の日本楽壇に大いなる自信を与える筈だった出来事は、夢まぼろしと消えた。結局、「あやめ」の初演は、1931年10月9日、日比谷公会堂にて演奏会形式で行われた。このあと、山田は「あやめ」からの管弦楽組曲を編み、それは1930年代に山田自身の指揮でベルリンやレニングラードで披露されている。が、オペラ・バレエとしての舞台初演の機会は、山田の生前にはついに訪れず、ようやく1971年4月大阪フェスティバル・ホール、5月東京の日生劇場にて、森正の指揮、観世栄夫の演出でなされた。今回はそれ以来、27年ぶり2度目の舞台上演となる。また、オリジナルの英語による舞台上演は、今回が初である。
 次にこのオペラの概要だが、その前に原作の「明烏」について触れねばならない。時は明和年間、西暦で言えば1760年代。蔵前の両替商、伊勢屋の養子、伊之助は、新吉原の扇屋抱えの太夫で年上の女、三芳野にのめりこみ、ついに実家から勘当され、それでもしばらくは三芳野が身揚がり〈太夫の方が客の遊興費をもつこと〉し、逢瀬を重ねたが、それも続かず、2人は扇屋の親方の手で仲を裂かれた。そこで伊之助は明和6年7月3日の晩、扇屋に忍んで三芳野を連れ出し、三河島の田圃で心中して大評判となった。以上の実説をもとに、安永元年(1772年)、初代鶴賀若狭掾が作詞・作曲したのが新内の「明烏」である。若狭掾は、伊之助を春日屋時次郎、扇屋三芳野を山名屋浦里とし、季節を夏から冬に改めて、新内を代表する艶麗な名曲を仕上げ、これは大流行して、文政年間(1820年代)には為永春水らによって小説化までされた。この「明烏」の物語が歌舞伎に移入されたのはずいぶん遅く、もう幕末の嘉永4年(1851年)12月のこと。江戸市村座にて、8代目市川団十郎の時次郎、坂東しうかの浦里で初演された。このときの劇伴音楽は、新内でなく清元だった。以後、この芝居は、今日まで繰り返し舞台にかかり、劇伴は清元だったり新内だったりする。新内も歌舞伎も、上巻が2人の仲の引き裂かれる場面、下巻が山名屋の主人に雪の中で時次郎を諦めろと折檻される浦里を時次郎が救出し死出の道行に出る場面という、2部構成である。
 さて、パーシー・ノエルは、この「明烏」を自由に脚色し、3景に仕立てた。
 第1景は、吉原の山名屋に売られてゆくあやめ(浦里)と、それを知り仰天する恋人の時次郎の姿を見せる。山田の音楽は、「箱根八里」や「お江戸日本橋」の旋律を織り込みつつ、江戸情緒を盛り上げる。
 第2景は、新内や歌舞伎の「明烏」上巻に相当する場面。冒頭には、実に山田らしく気ぜわしいオーケストレーションによる芸者踊りの音楽が置かれる。時次郎はあやめを身請けしょうと山名屋に乗り込むが、主人に馬扁され、結局2人の仲は引き裂かれる。
 第3景は、「明烏」下巻に相当する場面。雪の中で折檻されるあやめのもとに時次郎が忍んできて、心中場となる。打楽器は、歌舞伎の下座音楽の「雪音」を模し、サックスは追分風の旋律を纏綿と奏でて、心中場といっても派手さや生々しさを追わず、しっとりとはかなく夢幻的に結ばれる。その嫋々たる音楽表現には、新内や清元に通じる美学がある。
 日本の戦後のオペラには、清水脩の「修善寺物語」や「俊寛」、三木稔の「あだ」や「じょうるり」、間宮芳生の「鳴神」、あるいは真山青果の「元禄忠臣蔵」を下敷きにした三枝成彰の「忠臣蔵」など、歌舞伎そのもの、あるいは歌舞伎調の世界をイメージした作品が多くあるけれど、「あやめ」は、それらの原点に位置するオペラとみなせるだろう。「あやめ」のもつ歴史的意味は、実に重い。

 

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