日本財団 図書館


また社会生活の原動力としてまいりました。その過程の中で一番大きい問題は、やはり経済活動であり、日本においても二酸化炭素の発生量の6割以上が経済活動に伴うものであることはよくご存じのとおりでございます。その経済活動も、これから21世紀に入りますと、恐らく地球全体が1つの経済的な統合体、表現を変えますと、グローバルマーケットの中に組み込まれていくというプロセスに入りましょう。そこでは経済が市場経済、自由経済を基本として展開していくのでありますから、当然のことながら経済活動とエネルギーの消費、さらにまたその一環としての交通運輸業での省エネルギー、さらにまた地球環境保全のための努力が大きな役割を演ずることになりましょう。

それまで、すなわち石油ショックを迎えるまで、日本は敗戦の打撃から少しずつ回復し、経済の高度成長に入ったのでありますが、その際、経済の高度成長の一番基本は量の拡大にあったと申し上げてよいでしょう。それを支えていた石油の供給が、無制限である、無限であるという一種の幻想でありました。1973年の第1次石油ショックによって、この判断が誤り、あるいは幻想であるということを我々は身をもって体験をすることを迫られました。この時点から日本の経済成長はあり方を変えたと申し上げてよいでしょう。

1973年という年は、日本の経済にとって、特に素材部門では戦前、戦後を通じて最高記録をつくった年であります。例えば最もエネルギー消費量の多い産業である鉄鋼業をとりますと、この年に粗鉱生産は1億3800万トン、これは今日まで一度も超えられたことのない戦前、戦後を通じての最高記録であります。同様に、石油化学製品、合成繊維など、あらゆる分野において素材部門は、この年がピークを形成していたと申し上げてよいでしょう。

その後、日本の経済は、こうした素材部門の量の拡大から、全面的な質の向上に路線を転換しなければならず、またその転換を世界各国の中でも最も速く正確に、達成することに成功したのであります。それは一言で申し上げるならば、石油ショックを乗り越える上で日本ほど巧みに、かつまた精力的に、迅速に成果を上げた先進工業国はなかったということでもありましょう。その後、日本は本格的に質の向上を経済成長の基本に据えるという方向に路線を切り替えました。この転換がある意味では、日本国民の本能に従った行動の選択であったと申し上げてよく、これは日本国民の1人として大いに誇ってよい成果と私は思っております。

この第1次石油ショック以後、日本の経済は急速に、素材部門を中心に量の縮小に転換

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION