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上陸 国旗を掲揚し「昭和基地」と宣言しました。S69-00-22 E39-35-24 標高2918m 最高点43m 高さ2.5m 幅1.5 km 約2.5平方km 皇居位の面積の島です。

当時はザクロ石の露出(露岩)したものが多く見られ、また、基地滞在中ブリザートが吹き荒れた時など、雲母(片)が舞いゴーグルを掛けていなければ眼も明けていられない程でした。そんな現象も雪が降る迄の事でしたが。

基地名は「明仁親王基地」と皇太子(当時)の御名を戴くという案もあり、清瀬文相もその様な意向であったと聞いていますが、未ながく平和にそして国民に広く親しまれている「昭和」をという事で、現在の「昭和基地」になった訳です。因みに「昭和基地」の東側大陸沿岸は「プリンス・オラフ・コースト」西側大陸沿岸は「プリンス・ハラルド・コースト」と、ノルウェー皇族の名が命名されています。

いよいよ基地建設のための輸送が始まります。通称(愛称?)丸南通運が発動。「昭和街道」をダンプならぬ雪上車が疾駆する事になります。

南極の夏、白夜〜日は暮れません。24時間活動出来る訳です。氷の状況或いは気象(ブリザード等)の関係などで、動けない時も度々あり又色々な制約を排除しながらの輸送ですが、雪上車の運転は隊の担当、学者先生も大学教授も、医者も新聞記者(報道隊員〜現国会議員)も、エリート官僚も民間会社重役も、総て一隊員としてブリザートに晒され・パドル・クラックに転落し、往復50km前後の輸送路を20数時間かけて帰投した事も屡でした。4合の雪上車は1台平均1,500km、合計6,000kmこれは北海道〜九州間を1回半往復した行程です。

これをサポートしたのが「宗谷」乗組員の設営と工作の班員達です。雪上車は必ず複数で、そして出来る限り真ん中にレッカー車を配置し、隊編成で行動し前後に転落車があっても助け合うことにしていました。しかし気温や風の変化によりパドルが増え表面の氷が薄くなり、またクラックができ、広がったり移動したり、氷は全く千変万化の様相を呈します。そのため雪上車と雪上車が引く橇(物質満載ですが)に角材や厚板・ロープ、ワイヤー等を積み、数名ずつの乗組員が上乗りし、氷を踏み抜いて海没した雪上車を引き上げたり、パドルやクラックに架橋して輸送隊を通過させる等、万般の支援を離岸する日まで続けました。これは第1次だけではなく、第2次でも相当危険を伴う氷上輸送で実施されました。私も第一次離岸3日前の2月13日18.30村内隊員(地震・地磁気担当)と同乗の2号車が、基地直前の通称「花道」でタイドクラックに転落、怪我はありませんでしたが揚収できず放棄し、別の雪上車でずぶ濡れの儘、7時間かけて淋しく「宗谷」に帰投した想い出があります。なお、この時の2号車は「宗谷」から急行した設営班によって揚収され、引き続き活躍しました。このように手荒く使用せざるを得ない状況では、雪上車も橇も満身創痍です。船側氷上では機関科が溶接をはじめ総力を揚げ修理にあたり輸送を支えます。通信科も基地設備に協力、完成したアンテナから発射された電波は、2月11日 日本の結ばれ、大マストに揚げられた国旗は13km離れた「宗谷」からもはっきり見えました。

辛い苦しい輸送・設営はその通りですが、楽しいことも少しはありました。穴と割れ目ばかり

 

 

 

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