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王童小論

ニューウェーヴの伴走者〜リアリズムの探究〜

村山匡一郎(映画評論家)

 

15年ほど前に台頭した“台湾新鋭導演”の監督たちのなかで、多くの新人監督に混じって、映画界にすでに身を置いて作品を発表していた幾人かの監督たちがいた。そのひとりが侯孝賢であり、いまひとりが王童である。侯孝賢はその後、楊徳昌とともにニューウェーヴの旗手として世界の映画シーンで高い評価を受け、わが国の映画ファンで知らない人はいないだろう。では王童の方はどうだろうか。わが国でも映画祭や特集上映などで紹介されてきたとはいえ、ニューウェーヴの華々しさの陰に隠れた感があり、果たして正当に評価されているのだろうか。

王童は“台湾新鋭導演”のひとりと目されているが、より正確にはニューウェーヴの監督たちのいわば兄貴分に当たる。1942年生まれの王童は、実際に侯孝賢や楊徳昌よりも4歳ほど年上であるが、彼がニューウェーヴと目されるようになったのは、力強く生きる娼婦を描いた『海をみつめる日』(83)からといわれる。だが、彼の才能が注目を浴びたのは、その前年に撮った『苦戀』(82)である。これは白樺の小説を原作に有名な画家の凌晨光の生涯を描いたもので、見るものを圧倒する骨太のリアリズムに貫かれている、そうしたスタイルがおそらく、それまでの台湾映画に見られなかった新鮮な感覚として評判となったのであろう。

この『苦戀』が公開された年、“台湾新鋭導演”の出発となった『光陰的故事』(82)が世に出た。王童にとて、幸か不幸か、自分が認められたときが同時にニューウェーヴの台頭に当たっていた。王童はその意味で、“台湾新鋭導演”の兄貴分であると同時に、ニューウェーヴの影響を直接間接に受けざるをえない位置を占めていたといえる。映画評論家の張昌彦は、そんな王童を、わが国において1960年に松竹ヌーヴェル・ヴァーグが起こったときの今村昌平に比している。フランスのヌーヴェル・ヴァーグにも兄貴分としてルイ・マルがいたように、世界の映画シーンでニューウエーヴが台頭するとき、時代の変化を予兆する監督が必ず存在する。台湾映画においては王童だったのではないだろうか。

そんな王童のデビュー作は『假如我是真的(私が本物ならば)』(81)。これは1979年に上海で起こった実話に基づいた小説「騙子」の映画化で、リアリズムに貫かれた作品といわれる。それ以後『赤い柿』(96)まで、王童は11本の作品を撮っている。とくにデビューした1981年には、『假如我是真的『のほか』窗口的月亮不准看(窓から月を見ることは許されない)』と喜劇的な『百分満點(百点満点)』の3本を撮っている。これはデビュー作『假如我是真的』の評判がよかったためと思われるが、シリアスなドラマからコメディーまで幅広くこなせる職人芸的な腕のよさがうかがえる。

 

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その一方で、王童はもともと持っている骨太のリアリズムに基づくスタイルに新たな展開を加えている。それが次の『策馬入林』である。若き蔡明亮が脚本に加わった『策馬入林』は、唐時代末期の夜盗の集団を描いた時代劇である。寒村と夜盗の対立を描いたこの作品を見ると、誰もが黒澤明の『七人の待』を想起するだろう。しかも内容ばかりでなく、そのリアリズム表現も黒澤明の影響を受けているように思われる。王童はこの作品で、撮影前に俳優たちに厳しい乗馬訓練をきせ、実際に11頭の馬を殺したといわれる。そうした完全主義によるリアリズムは、まさに黒澤明の作風と通底するものがある。

実際、王童は中国東北部で暮らしていた少年の頃から映画ファンだったといわれる。1949年に国民党が台湾に移ったとき、7歳の王童も国民党軍の将軍だった父親と家族と一緒に台湾へ移住したが、その後もハリウッド映画をはじめ多くの映画を見ている。日本映画では『宮本武蔵』(おそらく1954年の稲垣浩作品)や『生きものの記録』(55)などが記憶に残っており、長じて見た『赤ひげ』(65)には深い印象を受けたという。そうした映画ファンだった王童が映画製作に携わるようになったとき、彼のリアリズムが黒澤明のそれに影響を受けたとしても不思議ではない。

ここでいう王童のリアリズムとは、ドラマの構造とともに視覚的な表現にかかわっている。王童の作品では、ドラマとしては最も納得がいく構成が強調されてきたし、視覚

 

 

 

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