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80年代台湾ニューウェーヴの大きなうねり

 

黄建業(映画評論家)エドモンド・ウォン

翻訳 大塚秀明

 

変革が待たれた年代

 

1980年代は海峡をはさんだ三地域の映画が全面的な刷新を迎えた時代であった。中国大陸では文化革命の沈滞と模索が起こり、香港では映画産業の新しい経営方式の採用と多くの人材の還流が見られた。また台湾では独自の健康写実映画は発展をとげたが、商業主義に傾斜した文芸大衆映画はスタイルが硬直化し、70年代末には入場者激減の危機に陥った。こうした変革が待たれた時代が、その要因は違っても着実にこの三地域で展開していった。

1982年に始まる台湾ニューウェーヴの潮流は、一般には映画史研究者により次のいくつかの要因が考えられている。(1)映画興行の側面、(2)関係省庁による映画政策の側面、(3)政治と社会の側面、(4)映画文化の側面という4つの要因である。まず映画興行の側面から見ると、香港ニューウェーヴと商業映画が1979年以降目覚ましい質的向上を遂げ、その影響で70年代観客動員数を誇っていた瓊瑤文芸大衆映画と軍事教育,政治宣伝映画が80年代の初めにはすっかり人気を失ってしまった点が挙げられる。この挫折は興行実績だけでなく映画の評価においても見られ、新しい世代の観客は、空中楼閣のような閉鎖的で現実感に乏しい瓊瑤の文芸映画に我慢できず、さらに政治宣伝や軍事教育映画が造りだす英雄を信じることなどできなくなっていた。香港映画に見られる新しさや絶えず改良を求める映画技術、宣伝手法に比べ、台湾映画は評価や観客動員数において深刻な危機に直面した。これに加え一部の映画に現われた暴力やセックスを題材にした粗雑な商業主義は、時代遅れの映画審査制度に側面から挑戦し多少話題になったが、台湾映画産業の崩壊と旧来の構造の滅亡を早めただけだった。こうして200本近い年間製作本数は激減し、伝統的な商業映画の危機は、台湾映画界の機構と製作技術や独創性の点で根本的な変革が求められた。こうした未曾有の低調ぶりは、若手監督に独立の機会を与えなかったからではなく、ニューウェーヴが内包する極めて複雑な社会、歴史、生活文化の素材が、旧来の映画産業制度の中では全面的に取り上げることができなかったからだと考えられている。

映画政策の方面では、数十年変わらなかった「電影法」が1980年代初めに漸く徐々に緩和された点が挙げられる。これまでの厳しい製作への関与、例えば撮影前の台本審査をはじめとする諸々の制限が次第に緩められた点である。また創作のときに嫌われた「無知の健康」や「貧血の幸福」に縛られることもなくなり、従来タブー視されていた、かなり微妙な歴史上の事件や社会問題を扱うこともできるようになった。宋楚瑜が新聞局長に就任すると、映画政策の大幅な開放が行われた。例えば、映画事業が特殊営利事業から文化事業に編入され、映画検閲の基準が緩められ、映画の等級分けが行われ、金馬奬や国際映画コンクールが拡充され、金穂奬が創設されて実験映画製作が奨励され、キャンパス映画展が推進され、インテリ層の映画への関心を高めた。このような政策の変革は映画文化を次第に多元的なものに向かわせたことは明らかである。

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