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6 健康写実

 

1950年代には国民党はしきりに大陸反攻を叫び、一部の国民もそれに期待したかもしれない。『赤い柿』には退役した元高級将校たちが大陸に残された国民党の工作員たちを救出する計画を家でこそこそ話し合っている場面がある。それを隣室で聞いたおばあさんがすわ大陸反攻かと喜ぶのだが、それはぬか喜びとしてわびしく演出されている。1960年代になると、もう大陸反攻のスローガンの空虚さは誰の目にも明らかになって、国民党は台湾の人々に別の目標を与えないわけにはゆかなくなっていた。経済建設がそれだったのだと思う。ちょうどそのとき、国民党立の映画会社である中央電影が提唱していたのが健康写実という路線である。健康に、つまり希望をもって、写実、つまり現実に働きかけてゆこう、という含意だと思われる。そのモデルとして作られたのが李嘉、李行共同監督の1963年の『海辺の女たち』である。漁村のカキ養殖場に働く女たちの労働と恋愛を扱った、ストーリーとしてはごく陳腐でさえもある大衆的な青春映画であるが、これがじつに元気のいい爽快な作品となった。女たちの喧嘩や労働の場面など、イタリア映画の『にがい米』『河の女』などの影響も感じられるが、現実にはそんなに華やかなものではない収穫したカキの運搬の場面などを、リアカーを満艦飾の旗で飾ったりして浜辺の大行進に仕立てあげている。その威勢の良さなどが素晴しい映画的効果を発揮していて、通俗大衆映画のまま、いやそれだからこその国民映画的な風格を獲得している。この『海辺の女たち』の成功からはじまる健康写実路線は台湾映画の産業的全盛期を代表するものであり、李行は以後この大衆的な路線を代表する監督として重きをなすが、これについては稿を改めて別に<李行論>を書くことにしたしたい。

 

7 ニューウェーヴと台湾の自己確立

 

日本の植民地時代に、朝鮮ではすでに立派に民族的文化と言える映画産業が成立し得たが、台湾では若干の教育映画と例外的ないくつかの劇映画以外には台湾独自の映画は成立しなかった。この違いがどこから来るのか、日本の政策によるものか。だとしたら朝鮮に対するそれと台湾の場合はどう違ったか。これは今後の研究課題である。

いずれにせよ台湾では、1950年代に入ってから映画産業は発足した。一方で日本時代に日本で映画の技術を見につけた若干の人々がおり、他方、本土の国共内戦を逃れてきた練達の映画人もいた。しかし多くは素人同様の人々で、文字どおり手さぐりで映画をABCから現場で学んだのだった。1962年に日本の大映が中央電影と合作した『秦・始皇帝』(田中重雄監督)などは、だから台湾映画にとっては技術的に大きな刺激になった。そして60年代になると本土出身で香港映画界でプロ中のプロになったような人たちも台湾で映画を作るようになるのはすでに述べたとおりである。

以上のような経過をたどることによって、台湾映画は、基本的には中国映画であり、日本と日本映画の影響も認められるものとして成立した。ところで中国映画と日本映画を較べると、中国映画は天下国家に志を語るようなタイプの作品に秀作が多く、日本映画はむしろ私的な心情を述べるような作品にいいものが多いという傾向が伝統的にあると思う。その違いがどこからくるか、いまくわしく論証している余裕がないが、ひとつの思いつきを言っておきたい。中国では科挙が殆ど文学試験であり、文学的訓練を積んだ官僚たちによって国家が指導されるという長年の伝統があって、政治的指導者であることと文学者であることが矛盾しなかったが、日本の場合はむしろ、政治に背を向けた人々によってこそ文学芸術が担われるという伝統があり、政治によっても左右されぬ人情風俗の中にこそ真に価値あるものを見出すという傾向が発達している。このことは近代の映画にも受け継がれていて、中国映画は陰に陽に政治や時流を語るときにこそ大きな力を発揮したし、日本映画のすぐれた部分は主として人情をこそ語ってきた。

台湾映画はどうか。国策映画が政治的なものであることは言うまではないが、健康写実路線も、天下国家を語るというような大げさな構えはなくとも政策的な目的を持っているという限りにおいてそうである。ただ、台湾という、外側の世界から大きく揺り動かされこそすれ、本土から離

 

 

 

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