日本財団 図書館


風」を配慮して、主として江戸城の北西に設けられ、延焼遮断帯としての役割を果たすこととなる。江戸城北の丸にあった御三家の屋敷が城外に移され、跡を明地にされたのも、この一環である。なお、火除地は、火災を受けた広い範囲の焼跡を指定するのが普通であった。

現在まで僅かに遺構を残している明地として「広小路」がある。広小路は、道路を拡幅して造成された。幅員は20〜36間という広幅員である。交通の便から街路の交差点や橋詰などを拡幅したところもあるが、当初から防火のために設けられたものもあった。幕府は、災害時の救済として御救小屋なる収容施設を造り給食もしていたが、この多くは火除広小路に設けられていた。「明和撰要集八」によると、「宝暦十年大火の節、江戸橋迄盤落ち候へども、広小路火除にまかりなり火移り申さず、隣町末々迄御慈悲とありがたく存じ奉り候」と広小路の存在に町人は感謝している。延焼阻止の効果はあったのである。

武家地と町人地との境に築かれた「防火堤」も、火炎を遮断するための空間であった。幅は20〜30m、高さは、約7mと推定される。その造成に当たっては、空閑地を利用したものではなく、街を整理したもので、移転・立退き料も出している。堤は盛土であり、川底を浚った土を利用した。上には松が植えられ、防火の役目を果たした。

この外、樹木の栽培場であった「植溜」が、大火の際避難所として役立った実績から、湯島広小路や両国広小路沿いなどに設けられた。その一つの面積は、約4000平方米という。

 

3)関東大震災の防火空間と樹木

空地の実際の防火効果について具体的に調べられ報告されたのは、1923年の関東大震災がはじまりである。農商務省林業試験場(当時)の河田技師はかが避難地の安全性や焼け跡の樹木の被害について調査されたものである。調査は同年9月の約1カ月間樹木と火災との関係について行われ、翌年4月「火災と樹林並びに樹木との関係」と題し、林業栞報特別号に報告された。この報告は更に同月、土木学会誌(Vol.10,No.2)に掲載されている。これは我が国における「火災と樹木」に関する研究の第一歩となる記念すべき報告である。以下筆者なりに整理したものを紹介する。

報告は、主として焼失物と樹木との距離につき調査がなされ、被害の程度は「変色」と「黒焦」の二通りに区分されている。

(1)遮蔽効果の一例

浅草観世音仁王門前に、幹径15cm、高さ5mのクロマツの並木があった。一方の列は炎上建物から7.2mの距離にあり樹木は全部変色、14.4m離れたもう一方の列は炎に面した前方は変色するものの後方は緑を保っていたという。

(2)耐火力の差異の例

幹径7cm,高さ4mのイヌマキは、炎上建物から45mの位置で前面葉先変色。ただし、付近の常緑広葉樹は変色せず。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION