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国近海の海上交通を確保するため、先ず中国所在の日本艦隊を撃破することを目標とし、第1期5年は次の艦隊を整備するとともに、航空機、潜水艦の漸増を計る。

 

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中国海軍はこの計画立案2年後の1936年には、「民国27年度対日作戦計画」を立案し,対日戦争の場合には「積極攻勢作戦をとり空軍と共同し、あるいは要塞の協力を得て短期間に揚子江上の日本艦隊を撃破する。続く第2次作戦では攻勢防御作戦をとり、軽快艦艇と航空機で来援する日本艦隊を撃破し、中国近海の海上交通を確保し、長駆来襲する敵の海陸軍が呼応するのを防止し、その間わが陸軍に集中、機動、防御の時間を与え、遊撃態勢をとらしめる」こととした。そして、翌1937年に第2次上海事件が勃発すると、8月12日には江陰水道を封鎖し、上流の日本軍艦艇を行動不能として武装解除するとともに、商戦を捕獲する作戦計画を決定した。もしこの作戦が計画どおり実施されていたならば、砲艦由良・保津・勢多・鳥羽・二見、敷設艦八重山、2等駆逐艦栂・栗や商船800隻が揚子江上流に孤立し、捕獲か自沈を選ぶしかなかったであろう。しかし、この情報は作戦会議に参加した秘書の黄濬から日本側に流され、日本海軍は危機一髪脱出して難を逃れた。以後、1937年から8年間続いた日中戦争により、日本で建造された最新鋭の巡洋艦寧海・平海など軍艦66隻、魚雷艇12隻(5万9000トン)が、撃沈または捕獲され、生き延びた艦艇は重慶付近にあった砲艦5隻、河川用砲艦2隻、魚雷艇1隻など10数隻と、河川用舟艇192隻総計1万9000トンに過ぎなかった。

しかし、第2次大戦が勝利に終わると、国府海軍は賠償として風雪・宵月以下の駆逐艦7隻、海防艦17隻、輸送艦2隻、敷設艦2隻の34隻(3万6000トン)を、さらに中国大陸に残置された日本海軍の砲艦や漁船改造の哨戒艇、陸軍の大発や小発などの小舟艇と汪精衛海軍の数隻の砲艦などを接収し、2169隻(8万3000トン)を保有するに至った。さらに、1944年秋には約1000人の将兵がフロリダに送られ、1946年7月にはフリゲート艦2隻、掃海艇4隻、駆潜艦2隻、および1万5000トンの輸送艦がアメリカから供与された。次いで300名の軍事顧問団と駆逐艦を含め、271隻の艦艇(大部分はLSTなどの揚陸艦艇)の供与をアメリカ議会が議決し、47年末までに35隻の艦艇が国府海軍に加えられた。しかし、その後は内戦の激化や国府軍の本土撤退などにより、供与艦艇は最終的には131隻に止まった。一方、中国への影響力を維持したいイギリスも、1944年に

 

 

 

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