日本財団 図書館


011-1.gif

 

4.4 造船業の急成長と繁栄を支えた造船技術の革新

 

1) 建造技術の革新

日本の造船業が戦後驚異的な急成長を遂げ世界一の造船国になった背景には,戦前に培われた民間の高い造船技術と旧海軍工廠の建艦技術の遺産があったことは勿論ですが,戦時中に生じた欧米各国との技術格差,特に溶接技術の立ち後れを取り戻すために造船界が一致協力して努力した賜であると思います。ここではその努力と,その後の自主開発の跡を振り返ってみたいと思います。

戦時中アメリカでは戦時標準船の建造に電気溶接を大幅に採用し,リバティー船の低温脆性による折損事故等数々の事故を経験しながら溶接技術を発展させ,戦争の後半には殆ど全溶接船になっていたことが,戦後になって分かりました。一方,日本では戦時中標準船の大量建造にブロック建造方式や流れ作業方式等新しい方法を試みてはいましたが,第四艦隊事件以来海軍が溶接採用に消極的であったこともあって,溶接は20%位しか使われていませんでした。従って世界の造船界に伍して輸出船を受注するためには,アメリカの溶接技術の水準に早急に追い付くことが不可欠でありました。

 

i) 学習と技術移転

この役割を果たしたのが,昭和21年に造船協会に設置された鋼船工作法委員会および電気溶接委員会(後に溶接研究委員会)であります。前者は現場のプラクティスを,後者は溶接の基礎技術(材料,溶接法,損傷原因解明等)を担当して目覚ましい成果を挙げました。なかでも鋼船工作法委員会は故吉識雅夫教授(当時,後に東大名誉教授,理科大学学長,日本学士院会員)を委員長とし,造船各社の造船工作部長クラスを委員とする極めてユニークな委員会で,各造船所の持ち回りで開催され,各社の造船工作に関する経験,問題点,新たな工夫,発見等を洗いざらい披露して討論し改善を目指すもので,日本の造船技術の急速な発展に大きな寄与をしました。企業がノウハウをさらけ出すということは他業種では一寸考えられないことですが,相手がそれまで未知であった世界の造船界であり,また需要は無限に有ったからでありましょう。また昭和27年に運輸省の肝煎りで設立された日本造船研究協会の各研究部会は産学協同の実を挙げ,大いに貢献しました。この種の共同研究はその後も造船学会,造船研究協会等の場で続けられ,諸外国から日本の造船業の特質とも做されています。
一方,呉の旧海軍工廠をアメリカのNBC(National Bulk Carrier Co.)が日本政府より貸与を受けて,アメリカ流の工作法で大型のタンカーや鉱石船の建造を行うことになり,貸与の条件に従って技術の公開が行われたことから,旧海軍工廠の優れた技術者や工員を通じて技術移転が行われたことはその後の日本の造船業の発展に極めて大きな意義をもっています。播磨造船所より参加した真藤恒技術部長(当時,後にIHI社長,NTT社長)は,NBC方式に加えて区画別艤装方式,工程別予定表の作成等の画期的な建造方式を確立し同氏のIHI移籍に伴いその後IHIがタンカーの大型化にリーダー的役割を演じる原動力となりました。図25は呉の旧海軍工廠で戦前戦艦大和が建造されたドックで大型タンカーが建造されているところです。

 

ii) 建造方式の変革とテンポ

上記の学習の期間を経,その後の自主開発も含めて建造方式は急速に溶接を主体とした大量生産方式へと変容していったわけですが,項目別にそのおよその時期を拾って見ますと次のようになります(図26参照)。

a) 鋲接より溶接への移行

自動溶接機(ユニオンメルト)が昭和26年に導入され,さらに40年には片面溶接が開発され作業効率の向上に威力を発揮しました。

また溶接の割合は図の破線で示すように昭和23年頃の25%から急激に増加して,昭和30年以降は100%になっています。

b) ガス切断の採用

昭和26年に自動ガス切断機が導入され,昭和42年にはNC(数値制御)ガス自動切断機が川崎重工及び日立造船でそれぞれ独自に開発され,直ちに各社に

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION