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しかしながら、第二次世界大戦が終わって、全国土が焼け野原になって、そこから出発しようとしたときに、日本には、石油の一滴も、鉄鉱石の1トンも、ボーキサイトの1トンもとれない国土であることを再認識せざるを得ませんでした。1945年に戦争が終わったとき、私たちは人間生活の基礎であります食糧が決定的に不足していまして、日本列島では、200万人を越える餓死者が出ました。そこで、全国土の中で可能な限り農地化することが、国民運動として行われました。私の中学生時代は、学校での授業などろくになくて、開墾ばかりやっていました。ところが、食糧生産は、人口増加に追いつけずに、食糧事情は少しも改善しませんでした。

そうした苦しい中で、1950年朝鮮半島で戦争が起きました。朝鮮半島の人々は、あらゆる生活用品を失い、そこで戦っている国連軍は、たくさんの武器、車両等々、修理を必要としました。これらの生活用品や車両等を提供するのに、世界の工業地帯でありますヨーロッパや北米は、朝鮮半島から遠過ぎました。工場は全部戦争で焼かれた日本ですが、朝鮮半島への物資供給という役割が突然出てきました。私たちは、戦争で焼けた戦災地から鉄くずを拾い、それを原料として、朝鮮半島に生活用品の輸出や、車両の修理等をやり出しました。これにより得られたお金で食糧を買いました。

このシテスムで、食糧危機を乗り越えた日本は、振り返ってみると、鉄鉱石も石油もとれないのに工業を興せることに気づきました。この工業復興のあり方は、今までの学問理論には全くないやり方で、後ほど加工貿易という名前をつけました。原料を、つまり石油や鉄鉱石やボーキサイトや石炭を海外から買い、それを加工して、工業製品にして海外に売り出す、あるいは国内の市場に売るということによって、その加工の賃金をもらうというシステムです。それまでの世界が、日本を含めて、侵略戦争によって資源を獲得するという方法を根底からひっくり返したやり方を始めたわけです。

ただし、これを実現するためには、大変大きな壁がありました。今日のセミナーで最初のアウトラインを説明する私としては、これが結論だと言ってもいいかもしれませんが、交通輸送コストとの戦いです。遠くから原料を運んできて、できた物をまた遠くへ持っていって売るためには、輸送コストを徹底的に安くしない限りは、資源のある国との競争に打ち勝てません。一般的な原則では、人が動くのでも、物を運ぶのでも、距離が長くなればなるほど、輸送コストは余分にかかります。それを短い距離しか運ばないところ以上に安くしなければならないという壁を乗り越えないと、この加工貿易の果実は手に入らないのです。

このノウハウをほんとうは詳しく説明するといいのですが、時間が大変短いので、結論だけ申し上げます。このマジックを実現してくれたノウハウは海運でした。海上輸送でした。50万トンタンカーが世界で初めてでき、ベトナムの沖を通り、アラビアから日本に石油を運んできた時に、試算をしたことがあります。アラビアから日本まで1万3,000キロを運ぶのに必要な石油1トン当たりの輸送コストは、日本

 

 

 

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