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「自発性」を評価する

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季衛東(神戸大学法学部教授)

 

個性とは、各個人しか持たない格別な性質または特徴を指すが、教育は、もとより個々の人間を一定の社会的役割体系に位置づけ、かつ普遍的な知能や価値の基準に一定の程度まではまれるように作ることである。また、個性の成長は自由主義的環境を要求するが、教育の効果は権威によるところも少なくない。したがって、「個性を伸ばすための教育」は、ある意味で一種のパラドクシカルな構想になる。そこでは、偶然的で形而下の個性と、外部から示された理想的な個性の人間像とを両立させるような第三のカテゴリーとしての個性が求められるだろう。

社会学者G・ジンメルがかつて語ったように、個人に選択の自由を認めながら、それなりの輝かしい夢、現状を超えていく抱負およびのびのびするような機会と自信を与えることこそ、個性を伸ばすための教育の立脚点だろう。それは、「より高いもの」を目指して人生の梯子に登る競争の正当化をも意味するが、教育には適度な競争の契機も欠いてはならない。個性は、自然的放任の状態より、むしろ倫理的人格の実現程度の競争、学習と創造の能力の競争、意見の競争、能動的エネルギーの競争のなかに形成されて発展していくものである。

しかし、自由な競争による差異性は、個性を支えるもう一つの信念――平等主義と互いに矛盾するところが確かにある。競争と平等の関係を適切に処理できない場合、とりわけ競争を抜きにした縦の関係が強化されたり、平等原理が跋扈して「横並び」に変質したりする場合には、集団的同化の暴力は、たとえば「いじめ」の形で、のさばりがちである。

一方、教育における競争は偏差値一点張りの「受験戦争」と等しく捉えることができない。受験の成績だけで人物を選別するような競争は、かえって個性を抑圧するようなものに転落してしまう。その結果、「いじめ」の集団暴力と「受験戦争」の間に逃げ道を探り出そうとする子供たちは、角がとれた玉石のようなステレオタイプ化の個体、自我の小さな世界に閉じこもった孤立の個体、瞬間的な解放に身を投げて耽溺する脆くてしかも残虐な個体などのような姿を見せながら、無力感にとらわれるのである。

個性を伸ばすための教育とは、「受験戦争」になじまない人間をも、社会の型にはまらない人間をも「おちこぼれ」としないように、それぞれの自発性およびメリットを正当に評価するのである。人間にそれぞれ違った志を抱かせるのである。このような教育は、なんでも包み込んでくれるような寛容性、ほかの人と違うことをしてもかまわないという自由度、そして「和して同ぜず」という意味での責任感を前提条件とする以上、学校だけではなく、家族、地域社会、職業団体ないし、国家的政策の連携プレイをも必要としている。

 

 

 

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