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ボランタリー・エッセイ

 

テーマ(1)個性を伸ばすための教育とは何か

 

芸術大学の矛盾

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福本繁樹(大阪芸術大学工芸学科教授)

 

芸術作品には個性やオリジナリティーがとりわけ重要視されるが、真に独創的な芸術作品を創りだすのは並大抵ではない。芸術大学で指導していると「どうすれば独自の作風が確立できるのか」と単刀直入に学生にたずねられることがある。「まなぶ」とは「まねぶ」(真似てする)ことだそうだが、真似に終わってはならない創作を、真似ぶことから学ぶのはアイロニカルなこととなり、学生の質問に納得できる回答を用意するのは難しい。

 

たとえば私は「カシコイといわれるより、バカだといわれることをすることだ」と苦し紛れに学生に答えたりする。この場合のカシコイとは、利口に社会に順応した常識程度という意味で、逆にバカとは「痴」や「無知」ではなく、「度が外れている」という意味である。芸術表現における独創性には、理性や教養よりも、独自の感性による視点と道を極めようとする徹底した姿勢のほうが有効だと言いたいのだ。芸術家とは頑固極まる変人で、周囲の人間や社会にとって迷惑な存在となりうる異端児である場合が多い。しかしその変人や異端児が人々の心を揺さぶり、新しい時代をリードしてきた。

ところで大学の大衆化が問題とされているが、なかでも芸術系大学の大衆化は顕著である。 一九五〇年代には一割にも満たなかった大学・短大進学率が今日では五割にせまる伸び率だが、その間経済成長とともに芸術への関心が高まり、芸術系大学の新設が相次いだ。たとえば私の専門とする工芸や染織分野の進学率も、五〇年代と比較して一〇〇倍以上増加している。

それら全ての大学が本気でプロの芸術家を養成すれば、世の中に芸術家があふれて不都合である。しかし幸か不幸か、その心配には及ばない。現実に、芸術大学への進学率増加の割には輩出される芸術家の数は増えていない。芸術大学の大衆化が一気に進められた結果、芸術教育の質的低下を余儀なくされたからだ。

このような状況下の芸術教育には、芸術を「教養」として身につけた常識人の養成が求められる。「個性を伸ばすための教育」が、本格的なプロのレベルではなく、平均化した一般教養のレベルとなる。新しい芸術にとっての「個性」とは従来の常識を超えるものでなければならないはずで、芸術教育が教養、センス、ファッションあるいは就職準備などのレベルですまされてよいわけはないのだが……。芸術系大学の教育は、いま深刻な矛盾を抱えている。

 

 

 

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