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第2章 フランスの出生動向

 

1. 近代の出生動向

 

大革命直前のフランスは、ロシアを除けばヨーロッパ諸国の中で最も人口が多い国であった【注2-1】。ルイ16世統治下(1754年-1793年)には、人口1,000人当たりの出生数はおよそ37人で、毎年90万から100万人の子どもが生まれていた。これほど高い出生率は今日では第三世界にしかみられない。

このフランスの豊かな出生率には1770年頃から減退の兆しが見えてくる。それでも人口1,000人当たり、1796年から1800年は約35人、1801年から1805年には32人強、1805年から1815年には32人弱の子どもが生まれていた。これだけの出生力があれば、戦争が多い時代であったにも係わらず人口は増加した。ナポレオン(在位1804-15年)は「私には年に30万人の人的収入がある」と言っている。彼がヨーロッパを制覇できたのは、当時のフランスの人口が他国を大きく凌いでいたからでもある【注2-2】。

フランスでは、他のヨーロッパ諸国より一世紀早く産児制限がおこなわれるようになったといわれる。記録によると、フランスでは、17世紀には上層階級に、18世紀初頭にはパリ周辺の限られた農村部に産児制限の進展がみられる。18世紀当時のフランスの人口の8割近くは農業人口であったが、可耕地の収穫率に対して人口は過剰であった。この問題を解消するためには、農業生産性を改善するか、移住を奨励するかしなければならない。しかし輪作技術はまだ存在しなかったし、フランス人は祖国を離れることを嫌った。堕胎は殺人と同等に見做される時代である。従って子どもの数を減らすためには、結婚するのを遅くしたり(女性は25歳、男性は30歳ころに結婚することが多かった)、避妊を行うようになったのである。

フランスで産児制限がおこなわれるようになったのは、フランス革命によって国民のキリスト教に対する信仰が薄れたことを原因とするのが一般的な解釈である【注2-3】。また子どもを乳母に育てさせる習慣が乳幼児死亡率を非常に高くしていたために、子どもの死に責任を感じるようになった親たちの間に、育てるのに適当な子どもの数という新しい考え方が芽生えてきたことが原因であるとも考えられる。

フランスでは古くから赤ん坊の授乳を乳母にさせる習慣があった。中世の領主の家では、子どもは生まれるとすぐに乳母にゆだねられた。妻は授乳をしないことによって容姿を保ち、より早く次の妊娠に備えることができたからである。近世には、都内の職人や労働者階級などの家庭でも、妻が働いているために赤ん坊に乳を与え

 

 

 

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