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る余裕がないために、子どもを農村に送って乳母に育てさせる風習が広まった。1780年にパリで生まれた21,000人の赤ん坊のうち、母親の授乳で育てられたのは1,000人足らずであったと記録が残っている。このうち家庭で乳母に育てられていたのが1,000人で、残りの大多数は農村の乳母のもとに里子に出された。18世紀の都市で子どもの死亡率を高めたのは、この里子の習慣にある。当時は里子の斡旋人さえ存在し、庶民の親たちは自らの子どもがどんな里親の手に渡るかも定かではないまま送り出しさえした。当然のことながら、乳母のもとに送られた乳幼児の死亡率は非常に高い。すでに16世紀には、裕福な貴族だった思想家モンテーニュでさえ、預けた乳母のもとで死んだ自分の子どもの正確な数は思い出せないと書いているのである。18世紀は捨児が急増した時代でもあった。18世紀後半のパリについての記録では、人口が50-60万人であった当時のパリでの捨て子の数は6,000-8,000人(洗礼を受ける赤ん坊の数は年に約2万人)となっている【注2-4】。しかも捨児の20-30%は嫡出子であったと推測されている。養育院への捨児の場合も、状況が許すならば再び呼び戻そうとの願望のもとにされるケースが少なかったので、里子と捨児との事実の隔たりは原理上ほど大きくはなかったのである。しかし当時の孤児擁護施設の記録では、生まれたばかりで収容された子どもの例では、1歳の誕生日を迎えるまでの間の死亡率は50%から90%となっている。

こうした背景から、フランスでは乳幼児の死亡率が他国に比べて余りにも高かったために、育てるのに適当な子どもの数といった新しい考え方が芽生えてきたと考えられるのであるのである。18世紀末から、人々の間に広く避妊が普及したと考えられている。人口1,000人当たりの出生数は、1832年以降には30人、1848年以降には28人、1880年以降には25人と減少し続けた。19世紀を通して死亡率は低下したが、フランスでは同時に出生率も低下したのである。

 

孤児収容慈善施設(1730年の絵画)

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