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第5章 ハンガリーにおける地方制度の現状

 

1 ハンガリーの概観

 

ハンガリー共和国は、ヨーロッパの中部に位置する内陸国であり、隣国は北から左回りに、スロヴァキア、オーストリア、スロヴェニア、クロアチア、ユーゴスラヴィア、ルーマニア、ウクライナの7か国である。国土面積は、93,030k?、人口は1996年7月現在で1,000万人である。人口のほぼ、5分の1は首都であるブダペシュトに集中している。また、民族構成については、人口の89.9%をハンガリー人が占め、少数民族としては、ロム人(ジプシー)4.0%、ドイツ人2.6%、セルビア人2.0%、スロヴァキア人0.8%、ルーマニア人0.7%が存在する(1)。他方、ハンガリーの国外に多数のハンガリー人が居住しており、ハンガリーの民族問題は、国内の少数民族問題よりも隣国との関係に関する問題である。具体的には、ルーマニアに200万人、スロヴァキアに50万人、セルビアに30万人、ウクライナに20万人のハンガリー人が居住しているとされる。

ハンガリーが抱えるあらゆる問題の根底には、人口の減少が挙げられよう。それは、移民などの社会的増減よりも、自然的増減によるところが大きい。すなわち、1996年の出生率が1,000人当たり10.3(1992年は11.8)であるのに対して、死亡率は、1,000人当たり14(1992年は14.4)である。

 

2 1990年までの地方制度

 

(1)共産党政権以前の地方制度

 

ハンガリーにおける地方自治の伝統は、近世における貴族の自治に遡ることができる。

1526年にハプスブルク帝国の名目的統治下に入ったとはいえ、ハンガリーの全領域にハプスブルク帝国の実効的支配が及んだのは、1699年にカルロヴィッツ条約によって、ハプスブルク帝国がトランシルヴァニアをオスマン・トルコ帝国から割譲されてから、より正確に言えば、1848-49年革命時にハプスブルク帝国を国家解体の危機に追い込んだハンガリー独立運動の鎮圧後であった。

ハプスブルク帝国は、ハンガリー独立運動を自力では克服できず、ロシアの介入を要請せざるを得なかった。独立運動後、ハプスブルク帝国は、ハンガリーの領域に対して戒厳令体制を導入した。ハンガリーにおける国家行政が平常化したのは、1867年のアウスグライヒ(Ausgleich)締結によってである。アウスグライヒは、ハプスブルク帝国とハンガリーの政治指導者との間で結ばれた妥協的な協

 

 

 

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