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ウクライナの独立はこんにち国際的に承認されており、1995年には欧州会議に加盟、1996年には同国最高会議が独立後初の憲法を採択した(国民投票にはかけなかった)。ウクライナの大統領は、東部の票で当選し、当選後は西部の支持で政権を安定化させる傾向がある。1991年の大統領選挙に際しては、西部はソ連下で反体制派民族主義者だったヴャチェスラフ・チョルノヴィルを、東部は共産党中央委員会からの鞍替組のクラフチュクを支持した。当選してみると、クラフチュクはむしろ西部にとって望ましい大統領であった。そのため、1994年の大統領選挙では、東部はレオニード・クチュマを、西部はクラフチュクを支持した。ドニプロペトロフスィクの軍産複合体の大立者で、ウクライナ語が当時話せなかったクチュマは、ロシアへの宥和政策をとるだろうと考えられたからである。ところが、当選後は、クチュマもまた西部寄りの大統領であることがわかった。こんにち、クチュマ政権は、NATOとEUへの加盟を目指す親西欧・反露政策を推し進めている。

 

3 制度史概観

 

(1)露ウの違いを生んだ環境的・制度的理由

 

露ウの政府間関係は、次頁の図表2の通りである。

国家が疑似自治体への授権を通じて国家権能を実現するという意味では、ソビエト制は大陸型地方制度の極端な形態であった。したがって、ソビエト制に替わる新制度が模索される際には、今後、国家の権能を地方レベルでいかに実現するかが問題となった。これは、大陸型地方制度の「優等生」である日本において分権論議が行われる際に一大論点となるのが機関委任事務であることに類似した状況である。この問題を解決するために旧社会主義国がとった選択に共通するのは、国家権能の自治体への授権を止めることとつまり大陸型を拒否し、アングロサクソン型の地方制度を採用することであった。ただし、集権型の国(チェコ、ハンガリー)において、県の国家化・郡の廃止を軸として、この移行が果断に実行されたとするならば、ロシアにおいては移行は漸進的なものであった。具体的には、地区を自治体として残存させつつも、それと並行して連邦・リージョンの機関を開設し、地区や市自治体への国家権能の授権を極小化することが目指されたのであるが、これ自体がうまくいっていない(20)。ウクライナにおいては、州と地区の国家化の方向が1995年の憲法合意によって確定しつつも、最高会議などの抵抗によって、1997年10月現在、この問題にすっきりとした解決がついていない。つまり、東欧においていったん極端な集権体制が導入された後に揺れ戻しの傾向が見られるのに対し、ロシア、ウクライナは地方機構の国家化の途上でもたついていると言えよう。

 

 

 

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