日本財団 図書館


第2章 宮田町のまちづくりの現況

 

1 宮田町のまちづくりの背景

 

(1)一般的な動向と宮田町の動向

 

高度経済成長期までのまちづくりは、国を頂点とした中央集権型の行政システムにより、急速な近代化と経済発展をめざすことを主眼に行われた。一方で、地域的な諸条件の多様性を軽視し、地域ごとの個性ある生活文化の衰微や公害の発生という弊害も表面化してきた。

そのような社会環境の中で住民活動は、1960年代の後半になって住民運動に代表されるように、住民と行政との対立の構図が主流であった。それが、1970年代、1980年代にさまざまな試行錯誤、学習、発展を経験し、1990年代に入ってからは住民と行政との対等な協力関係によるまちづくりへと変化してきている。

しかしながら、宮田町においては、貝島炭礦の閉山(昭和51年)後の鉱害復旧事業が、1980年代までのまちづくりの大半を占め、そのため総体的にみて、まちづくりへの取り組みの遅れとして現れている。(図表2-1参照)さらには、企業誘致の成果がみられるものの、いまだに人口は微減傾向にあり、しかも老齢人口が23%(図表1-15参照)という現実は、まちづくりに新たな対応を迫ってきている。

 

(2)富田町におけるまちづくりの問題点

 

貝島炭礦の更生計画が結了(平成5年)した宮田町では、その翌年に「まちづくり元年」(平成6年)を宣言し、町再生への決意を表明した。それに前後し、トヨタ自動車九州の操業開始(平成4年)、まちづくり推進準備専門委員会(平成6年)設置など、1990年代に入ってさまざまな動きや計画づくりが行われた。

まちづくりのための諸計画の具体的な事業化の主眼は、道路などのインフラ整備に置かれているが、その進捗もスムーズに進展していないのが現状である。むろん、そのうちのいくつかは、すでに事業化されているが、計画段階に止まっているものも多くみられる。その原因としては、次の2点が指摘できよう。第1に、それぞれの計画が総合的な視点に欠け、計画間の相互調整が不十分なまま策定されている傾向がみられる。

 

第2に、行政中心の計画策定であったことに加え、その策定過程への住民のかかわり方も希薄であることがその障害となっていると思われる。そこでは、企業城下町に多くみられる他者依存型の住民意識と閉山処理の過程における住民と行政の意思疎通や信頼感の低下という歴史が背景にある。

 

(3)住民と行政の協働化の胎動

 

そのような現状をふまえ、平成3年から始まった「いこいの里“千石”整備事業」はすでにその事業としての成果をみせているが、住民を巻き込んだ事業の広がりという点においては、いまだ課題を残している。また、平成8年に着工された「犬鳴川河川公園建設事業」においても、住民組織として「犬鳴川みどりの会」を結成し整備を進めてきているが、まだ行政がそのけん引役を担っているのが現状である。そのけん引役である行政においても、組織として全体的な取り組みという位置づけまでは至っていない。しかし、一方では、住民がその活動を担う動きも現れている。

上述のとおり、本町において、住民も行政も、一般的なまちづくりの歴史でいわれる、さまざまな活動の試行錯誤の積み重ねのなかで、それぞれの役割を認識し、手法や組織を確立していく、というようなまちづくりのトレーニングが不足している状況にある。また、町の目指す具体的な将来像についての合意もいまだ住民の間に形成されているとは言えない状態である。とくに、広大な炭鉱跡地を擁する本町においては、その跡地利用は町の経済的発展や居住環境の質を左右する重要なテーマである。そのような点において跡地利用も含んだ本町のまちづくりを推進するためには、住民と行政の協働によるまちづくりの視点に立った具体的な計画の策定が必要である。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION