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その募金に応ずるのは、その代償としてわが身の救済が得られるからだ。そんなわけで、伝統的な神学や宗教をささえてきたのは「利己主義」だ、とコントは論断するのである。

それにたいして、「実証的道徳」は「利他的」である。ここでは、「個人」ではなく「人類」という、より高次の普遍概念が中心となり、「共感の本能」から発する「幸福」の観念に人間は目ざめるようになる。「ひとりの人間が多種多様な局面で他のすべての人間と結びついていることを常に強調する」ような状況がうまれ、「あらゆる時と場所に正しく拡大された社会的連帯という深い感情に、知らず知らずのうちに親しむということになる」とコントはいう。この「共感の本能」こそが、じつは自我と他者をむすび、自己愛から人類愛へと愛情の形式を高めてゆく原動力なのである。この段階での他者への思いやりは、「人類」という同種生物の共生観念に根ざしたものだから、そこには偽善もないし、利己主義もない。コントはこの「実証的道徳」の時代を、きたるべき理想の新時代としてとらえたのである。

これはわれわれの通俗的な知識と対比するとき、大いに衝撃的である。というのは、一般に中世までの世界は帝国や封建の時代であり、「全体」権力が「個」をおさえつけていたのにたいして、「近代」こそが「個」の確立期だと信じられてきているからである。じっさい、わたしなどの世代の人間は、若いころ、朝永三十郎の『近代における「我」の自覚史』などという書物を熟読し、デカルトだのパスカルだのといった思想家、哲学者の思索によって、いかにして「近代個人主義」がうまれたかを知った。また、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』に接して、プロテスタントの内面的な「祈り、かつ働く」精神こそが近代資本主義の原動力であったことを学んだ。

そういうわれわれの「常識」からすると、以上にみたコントの三段階論はまったく逆転している。コントの論法をもってすれば、「個」を中心にしていたのは中世であり、集団意識こそが近代のものだ、ということになる。「利己主義」と「個人主義」はちがうのだ、という論法は成りたつだろうし、「個人主義」とはコントのいう「利他主義」をふまえてうまれたものだ、という解釈もできないわけではない。

しかし、「個」、つまり「じぶん」の利害によっ

 

 

 

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