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高齢者にやさしいまちづくりに向けて
〜北九州市における高齢化社会対策〜
 
北九州市企画局調整課長
水谷 朋之
 
はじめに〜北九州市の歩み
 
現在の北九州市の市域の大部分は、明治半ばまでは一寒村にすぎなかった。
これが、維新後、明治政府が進めた近代化により、筑豊炭田が急速に開発され、国策として重工業化が図られることとなる。鉄鉱石から鉄鋼一貫作業のできる大製鉄工場が、当時人口わずか2,000名余りの八幡村に官営の製鉄所として建設されることとなったのは、明治34年(1901年)のことであった。
この官営八幡製鉄所の建設などを契機として、北九州地域は急速に近代都市へ変貌を遂げ、やがて日本の四大工業地帯の一角に位置づけられるまでになったのである。昭和30年頃まで、北九州地域は、工業地帯として繁栄を続けたわけであるが、石炭から石油へのエネルギー革命により、石炭と鉄を基盤とする素材型産業の優位性が崩れ去り、北九州地域の活力の低下が始まった。
次第に地域としての地盤沈下が進行していく中で、新たな活力を生み出すべく、昭和38年、門司・小倉・八幡・若松・戸畑の五つの市が対等合併し、6番目の政令指定都市として、北九州市が誕生したのである。
合併当時103万人であった人口は、昭和54年の106万人をピークとして、現在では102万人を少し切る状況である。また、工業出荷額、製造品出荷額などについても全国比で0.9%弱であり、現在の北九州市は、工業が比較的に集積しているとはいうものの、全国的には平均的レベルの工業都市といえよう。
 
1 北九州市の高齢化の現状
(1)高齢化が進行する北九州市
北九州市が日本の四大工業地帯の一つに数えられていた時代には、労働者が大量に市内に流入し続け、継続的に若い都市でありつづけた。合併直後の昭和40年において、初めて2,763人の社会的減少が生じたものの、高齢化率は4.8%と全国の6.3%を下回る水準であった。
しかしながら、この昭和40年以降、経済・社会状況の変化の中で、急速に北九州市の高齢化が進展していく。
まず、昭和40年代前半には、北九州市の基幹産業である鉄鋼業を中心とした製造業において、生産地立地から消費地立地への転換などの諸要囚から、次第に首都圏への工場の再配置あるいは、新規立地が進んだ。そのため、特に若年層の首都圏への流

 

 

 

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