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のかという問題であった。前者の場合、既存の行政区画が2層制をなしている以上、自治体も2層制をなすことになる。後者のアプローチの支持者は、自治体間に支配従属関係はあってはならないとの前提から、地方自治とは、ほんらい1層制でしかありえないと主張した。国家会議の法案は既存の行政区画から出発するものであり、大統領府の法案は、図表6が示すように、1層制自治を主張するものであった。両者の折衷の結果、自治体形態の場合と同じく、下駄は地方に預けられた。つまり、「地区」と村との双方に自治体を形成するのか、「地区」・村・あるいはその中間単位に1層制自治体を形成するのかは、州法および自治体憲章に任されたのである。

筆者には、大統領府案による1層制自治の主張は、(前述のインテリ的観念主義の現われであると同時に)大統領派の伝統的な「地区」敵視政策の最後の燃え上がりだったように恩われてならない。周知の通り、大統領派は、「地区」は共産党の牙城でしかありえない、したがって「地区」の自治は共産党を利するのみである、「地区」には任命制の国家機関のみを置くべきである、という先入観を抱いていた。ソヴィエトの廃止後、エリツィン大統領は市には代議機関を再建することを許したが、「地区」にはそれを許さなかったことは記憶に新しい。しかし、1992〜93年頃に「地区」エリートが野党的であったのは、政府の側が無謀なファーマー化政策を推進し、既存の集団農業を意図的に痛めつけたためである。このような冒険主義を放棄し、既存の農村エリートと和解するよう努めれば、ほんらいコルホーズ・ソフホーズは、行政府からの補助金、資材・燃料供与に著しく依存しているのだから、行政府党の堅固な支持基盤となりうるのである。

一般に、どこの国においても「権力党」の選挙運動の方法は、都市よりも農村において効果的である。ロシアがこれの例外である理由はなく、また、1996年の一連の選挙の中で、大統領派はこれをはっきりと自覚したのである。とりわけ12月の州知事選挙は、行政府党の支持基盤が農村に移ったこと、逆に、人民愛国派の支持基盤が都市化しつつあることを明白に示した。1994年にエリツィンが州エリートと和解したとするならば、1996年には、彼は「地区」エリートと和解したのである。

8 まとめ

ロシア農村部の行政区画分けは、帝政期の県一郡一郷一村の4層制から、現在の州一「地区」一村管区の3層制へと変化した。最近の地方制度改革において、この構造を流動化しようとする試み、とりわけ「地区」の意義を低める試みがなされたが失敗した。筆者の見解では、ロシア農村部の空間の広大さ、人口密度の低さを考慮すれば、「地区」のような中2階構造は不可欠であり、不可欠であるとするならば、そこに国家機関のみがおかれるよりも、代議機関を有する自治体がおかれた方がよい。

ロシア帝国は連邦国家ではなかったので、県の区分は純粋に空間的になされた。レー

 

 

 

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