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たりしたのは、このような安井の卓越した「実務性」の裏返し的表現そのものだったと言ってよい。
 だが「実務性」に徹した安井にして、いやそれ故に「実務性」にそくした都政の限界を認識したからであろう、実は安井は“首都性”を前面に押し出す戦略を2度くり返し用いることになる。1度めは首都建設法、2度めはグレーター東京構想である。

4 首都建設法

 まずは首都建設法の制定という国政とのつながりを求める問題を考察しよう。そもそも安井は、なぜ「東京」建設ではなくて「首都」建設を推し進めることになったのか。それは戦後の都政を規定した地方自治法に起因している、地方自治法によって東京も他の道府県と横並びの一地方になってしまった結果、特別扱いをしてもらえない。そればかりか富裕地方ということで、地方交付税は配分されぬばかりか、すきあらば逆に国庫に金を吸い上げられる状態が続いた。
 そこで安井は、東京の“首都性”に鑑みてハードの施設の拡充のために、国政と都政とを機能的にリンクし、国から金を引き出すしくみを作り上げようとしたのである。首都建設法は1949年(昭和24)12月都議会の満場一致の可決により請願書が国会に提出され、これを受けた国会は議員立法の形をとり50年4月に可決した。さらにこれは憲法の規定により都民の住民投票に付された。
 住民投票の結果は賛成55%と芳しいものではなかった、しかも明確な首都論争がおこらないまま、1951年に発足した首都建設委員会は、金も人も得られぬ行政委員会としての弱点をさらけ出し失敗に終わる。
 もちろん安井は、首都建設法という一片の法律の成立でうまくいくと考えていたわけではない。そのために国政シフトを敷いた。2人の生え抜き副知事に加えて、総務局長、財務局長という主要ポストに次々と政治的手腕のある人物をすえ、また都庁官僚OBを国会に送り出し、都政が国政を動かすことを期待した。すなわち“首都性”の認識を強めれば強めるほど、安井は国政と都政をリンケージさせる方向に進んだのである。
 このように制度と人材の両側面から推進したにもかかわらず、首都建設法はなぜ不本意な結果に終わったのか。第1は“都民”にまったくアピールしなかったからである。住民投票時の都民の感覚をあらためさせるような「首都とは何か」という議論がまったく

 

 

 

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