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雄、元厚生大臣広瀬久忠、元内閣書記官長藤沼庄平らは、いずれも実務に精通してはいたものの、やはり地位に見合った「象徴性」を重んじた起用だったと言えよう。そこには、同じく“首都性”を担った警視総監の起用方法と相似た国政の意図一戦時下の首都経営一を、見てとることができる。
 だが最後の部長官安井誠一郎の登場は、首都を代表する「象徴性」の流れを一挙に変えた。公職追放でハイレベルの内務官僚などの適任者がいなくなったという意味での人材難のせいもあったが、何よりも敗戦直後の混乱状況を収拾するためには、「象徴性」よりも大都市東京を経営する「実務性」が尊ばれたのである。ありていに言って、同じ内務官僚出身といっても大達茂雄らとは異なり、安井誠一郎は内務官僚としては決して主流であったとは言い難い。しかし戦前東京市電気(後の交通)局長まで務め上げ、いわば市政官僚として戦前の東京市政の裏表を知り尽くしていたこと、加うるに厚生次官として戦災復興の基本的方針を理解していたこと、この2点は戦後都政を切りまわす上で彼の地位を飛躍的に強化した。これに加えて、先ほど述べた地方自治法の制定が、首都か東京かという問題に大きな影響を及ぼす。そして実はこのことが、安井誠一郎の初代公選「都知事」への道を容易に開くことになった。なぜなら「部長官」は全国横並び平等主義のために「都知事」と名称を変更され、シンボリックには格下げのイメージを余儀なくされた。しかし「象徴性」よりは「実務性」に実際的意味を見いだす安井にとっては、その方がかえって好都合だったからである。しかも「象徴性」を代償に都議会議員や都出身代議士に対しても、直接選挙による任期4年という安定した地位を確保することができた。

3 安井知事の「実務性」とその極致

 かくて戦後の「都知事」は、もはや首都を代表する「象徴性」ではなく東京を経営する「実務性」に重きをおいてスタートする。したがって以後3期12年に及ぶ安井都政は、ある意味で戦前の東京市政以来の伝統を忠実に引き継ぎながら、戦後の地方自治法の枠の下での復興をめざす新たな東京都政として築き上げられていったのである。言い換えれば、戦前の東京市会を中心とした権力拡散型の政治行政システムを再編成し、都知事を中心とした集権的な政治行政システムに作りかえていった。安井が大野伴睦ら自由党党人派の政治家たちと必ずしもソリが合わず、また都庁が“伏魔殿”と称され

 

 

 

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