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寒く、暖房はありません。毛布にくるまっているうちに、だんだん、寝たきりになってしまいました。そこは、風がビュンビュン吹き込む所ですので、肺炎を起こしたり、インフルエンザにかかり、亡くなった方も沢山います。それから、栄養が偏って、暖かい食事も出ません。その上障害に対する心理的なストレスも重なりました。学校の中はカビが臭くて、汗臭い。トイレは車椅子のトイレがないわけですから、お隼寄りにとっても、あるいは車椅子に乗った人にとっても、トイレに行くことは非常に難しい。それから、二階に避難所があるところでは、エレベーターがないから、そこには行けない。学校の給食設備とか、電子レンジとか、大型の布団乾燥機というものが使えませんでした。そういう中で、震災後6か月の間に、422人の方々が命を亡くしました。もし、これが、お隼寄りが地域の中で住みやすい状態があったとしたら、例えばデンマーク・スウェーデンのように、街のあちこちに老人のサービスホームがあって、しょっちゅうそこに行けるような状態であれば、また、ショートステイとかミドルステイとかの状態で、行くところがあれば、おそらくこの方々は、地震によって避難所に行かなかったのではないか。老人のサービスホームに行けば、そこで身体が休まって、昔の友達と一緒になって生活することができたはずです。
 しかし、これからが大変でして、仮設住宅に行くために抽選をやりました。そのために皆バラバラになりました。今まで築いてきた地域の絆はなんだったんだろう。そのために、友達がいなくなりました。だから今でも、心のケアが必要であり孤独死がおこっております。今でも500人くらいの人がどこに行ったのかわからない状態なんです。こういうことをもう一回繰り返してはいけない。そのために、これからどうしたらよいかを、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
 もう一つは、障害を持った人達にとって、この地震は何であったんだろうかということを考えてみたいと思います。まず、水が出なかったので一番困りました。しかし、軍椅子に乗っている脊髄損傷の人達は、普段まちの中で車椅子用のトイレを見つけることは極めて難しいです。したがいまして、なるべく小便をしなくていいように、水を始めから飲んでいない努力を普段からしているのです。それから、電話が通じないという話で、ものすごく文旬を言いました。しかし耳の不自由な人にとっては、電話ははじめから無用の長物ですよね。公衆FAXの必要性が改めて認識されました。それから、倒壊によって道を塞いだと言いますが、車椅子の使用者にとっては、以前から通れないのが当り前の道路でありました。したがって、倒壊しても別に困らない。鉄道が使えないと、皆が不満を言っているけれども、ここの阪急の沿線はかなりエレベーターができておりますけれども、まだまだ一般のJRの駅などに行きますと、エレベーターなど殆ど無い。ですから、鉄道は車椅子使用者には元々使えない。それから、代替えバスを長いこと待って乗りました。私も2時間3時間待って乗りました。ブッブッ皆文句言ってました。しかし、我々は待っていたらいつかは乗れるんです。車椅子の人達は始めから乗せてくれないのです。介護者がないと、乗せてくれない。はたしてこのようなことでいいのでしょうか。
 それから、仮設住宅というのは、プライバシーの問題で色々ありましたけれども、もともとプライバシーとかいうのは、施設などに行きましたら、皆それぞれ相部屋ですので、プライバシーなど全く無い。最近どんどん、個室を持った特別養護老人ホームができ始めましたけれども、まだいまだに、2人部屋、4人部屋、6人部屋なんていう老人ホームが沢山あります。本当に人間らしく、残された人生を送るのに、人間として生きて来た甲斐の無いそんな施設に入るのはイヤだと、誰だって思いますよね。やはり、そんな施設よりもできるだけ住み慣れた地域の中で住みつづけていきたいと思うはずです。
 そこで結論として、障害者が地域で過ごしている市民生活は、健常者が災害後に体験した不自由極まりない生活の連続と同じである。震災前の健常者中心の生活が、障害者にも極当り前に保証されてこそ、ともに生きる街づくりと言える。これが本当だと、私は思います。

 

 

 

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