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見ると、追艤は悪鬼を払い、新年を迎える儀式で大晦日の大祓いについて行われた行事とし、日本へは文武天皇(六九七〜七〇七)頃に伝わった。周礼(中国の古い書物)によると、方相氏と称する呪師が熊の皮をかぶり、四つ目の黄金の目の面をつけ、黒衣に朱の裳をつけ、手に文と盾をもって疫鬼を追い出したと記してある。

この中国の際の儀式が日本に入って来たようである。平安時代の後期に書かれた『江家次第』という宮中儀礼を記した書物を見ると、その追儺の項のところに、陰陽寮のものがないし桃枝弓、葦矢を上卿以下の者に進め、内侍が南殿に渡り、近衛の役人が階下に陣どる。役人が承明門を開くと三卿(公家)が巽(南東)の壇上に立つ。陰陽寮の者が同じく壇上で桃弓、葦矢を闇司(内裏内側の門の鍵を司った女官)に授ける。次に方相子が仮子をつれて参入する。三卿が侍従犬舎人(下級役人)等をひきつれ労相氏の後に従った。以前、陰陽寮の下部八人が方相氏に饗をすることがあったが、それは平安時代後期の頃は行われなくなった。次に陰陽寮が斉部(朝廷の祭祀に奉仕する者)を率い月華門より入って来る。(允一役人)一人が版(書いたもの)を立て呪文を読む。労相氏が儺声(鬼を追う声)を言い、戈を持って盾を三度たたく。群臣たちがそれを受けて儺を追う。方相氏は明義仙華門を通って北廊に出る。上卿以下は方相氏の後に従う。瀧口戸より出て殿上人が長橋内で労相氏を射た。主上は南殿でひそかにこの様子を御覧になった。還御の時、扈従の人たちが方相氏に逢い、振鼓・儺木等種々の事を行ない、殿上人は御座方に候したと記してある。『江家次第』より古い時代のことを記してある『延喜式』には大舎寮の舎人が鬼となり、舎人長が労相氏となり、労相氏に従う振子という八人の児が桃弓・葦矢・桃枝をもって鬼を打ったとある。方相氏は四つ目の仮面をつけ、熊の皮を着て黒衣・朱裳をつけ戈を持って盾を打ったとあるから、大体中国の鍵の儀式が日本に伝わったようである。

四つ目の仮面をつけ熊の皮をつけたという方相氏の面は今日伝わっていないし、その行事も今日見ることはできない。方相氏の仮面が恐ろしい表情であったので、方相氏が疫鬼に変ったと言われているが、今日日本に残っている追儺の鬼面は四つ目ではなく、頭部につの角をつけ、口に牙、髪を逆立て、獣耳を刻した本形仮面である。方相氏の面が恐ろしい面であったのでそれが追われる悪鬼になったというのは『江家次第』に殿上人が方相氏を射たと記してあるので、そのように解釈したようである。『江家次第』の記事は必ずしも詳細ではないので今一つ疑問がある。

修正会の鬼

追儺の行事は鎌倉時代に寺院の修正会(国家の繁栄を祈る)の行事と結びついて盛んに行なわれ、地方にも広がっていった。修正会に行われた追儺は中国から伝来した追儺とは少し変化していた。方相氏は出てこないし、その時にでる悪鬼は方相氏の相貌とは全く違ったものである。

『明月記』承元元年(一二〇七)正月十五日の条に、法勝寺修正会のことを記したところがある。そこには殿上人、近習殿上人頭中将以下御供人たちが鬼を打ったと記してある。鬼を打ったのは殿上人たちであった。また『勘仲記』正応二年(一二八九)正月十八日の蓮華王院の修正会の追儺式を見ると、鬼三匹を龍天が棒をもって追ったとある。鎌倉時代の記録には毘沙門天・龍夫が追儺の時に鬼を追ったという記事が多く見られる。毘沙門天・龍夫は仏を守る者で強い表情をしていた。毘沙門天・龍夫を演じたのは呪師と呼ばれる下

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鯖江市多加神社に伝わる修正会の鬼面

 

 

 

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