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序章
組織体制・制度の変革
第1節 日本財団の沿革
(1)設立からの変容
 高度成長政策により、わが国の経済が急速に発展しつつあった1962年、日本財団は、(財)日本船舶振興会としてスタートした。東京都の人口が1,000万人を突破し、堀江謙一氏がヨットで太平洋を横断、世界ではキューバ危機などが起こった年である。
 しかし、その事業の歴史はさらに古く、1950年代後半に開始された(社)全国モーターボート競走会連合会の補助事業にまでさかのぼる。
 1951年6月、モーターボートの製造に携わる企業の振興等に寄与するとともに、地方財政の改善を図るために行うモーターボート競走について規定する「モーターボート競走法」が制定され、翌1952年6月よりモーターボート競走が開始された。
 その5年後の1957年6月、競走法の一部が改正され、(社)全国モーターボート競走会連合会が、売上金から法律で規定する割合の交付金を受け入れ、モーターボートの製造事業等の振興のための貸付事業、ならびにモーターボートの製造と海難防止の振興等のための補助事業を行うことになった。
 さらに1959年4月、「中小型鋼船造船業合理化臨時措置法」の制定により、競走法の一部が改正され、振興事業の範囲が「モーターボートその他の船舶」にまで拡大された。これに伴い、同年8月に(財)日本船舶工業振興会が設立され、振興事業のうち造船関連工業および海難防止の振興等のための補助事業を、この新財団が行うことになった。
 その後、1961年3月に、内閣総理大臣より公営競技調査会に対し、公営競技全般に対する今後の基本的方策についての意見が求められた。同年7月、同調査会より公営競技の弊害をできる限り除去する競技運営の方策が示されるとともに、「売上金の一部を、関連産業の振興に充当するが、その他の社会福祉事業、医療事業、スポーツ、文教関係等にもなるべく充当することとし、この旨法律に明記すること」が答申された。
 この公営競技調査会の答申を受けて、1962年4月、競走法の一部改正が行われ、交付金が社会福祉事業、文教体育事業の増進を目的とする事業の振興にも使用されることとなった。こうした新たな分野の事業を(財)日本船舶工業振興会が遂行するには限界があることから、(財)日本船舶振興会が設立されることになった。
 1962年10月、(財)日本船舶工業振興会を解散して、(財)日本船舶振興会(日本財団)が設立され、初代会長に笹川良一が就任。同時に、(社)全国モーターボート競走会連合会に対する交付金の納付も廃止され、本財団が交付金を受け入れ、これまで(財)日本船舶工業振興会および(社)全国モーターボート競走会連合会が行ってきた補助事業および貸付事業のすべてを継承することになった。
 設立当初は、国内の造船および造船関連工業に関する事業の振興と、社会福祉や文教体育の増進を目的とする事業の振興を中心に事業が展開された。
 その結果、戦後の造船および関連工業の技術開発や技術革新に大いに寄与することができ、わが国の造船技術は世界のトップレベルに達していった。
 その他の分野の事業においても、国家事業とは異なった、身近できめの細かい事業方針が高い評価を得るようになっていった。
 1981年4月には、海外協力援助業務規程が制定され、本格的に海外協力援助事業が開始された。日本の国際社会における役割が諸外国から求められ、ODA予算が増加するのに合わせて、本財団の海外協力援助予算も急速に伸びていった。
 この海外協力援助事業は、他の公営競技関係団体では制度上実施が難しく、本財団のみ可能であるが故に、本財団の性格を特徴付けることになった。
 また、1993年4月には、草の根レベルでのボランティア活動に着目し、ボランティア団体等への援助も開始された。
 
交付金と利息収入の推移
年度 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001
交付金 69,912 65,946 61,233 60,662 60,257 57,880 53,755 49,178 44,665 42,543
利息収入 7,168 6,396 6,067 4,872 4,217 4,149 3,843 2,889 2,208 1,600
(単位:百万円)
 
(2)激動期
 競艇事業の売上拡大に伴って、日本財団設立以来の30年間は、組織も事業分野も、そしてまた事業規模も、拡大の一途をたどった。しかし、これに続く1992年から2001年の10年間は、まさに激動の10年であった。
 バブル崩壊もあって、競艇の売上は1992年度の2兆2,000億円をピークに毎年減少傾向が続き、2001年度には1兆2,800億円とピーク時の60%にまで減少した。2002年度に入り、競艇業界関係者の努力が実って対前年比で若干の売上増が見込まれているが、1992年からの10年間は、売上減少傾向に伴ってそれまでの拡大路線から一転し、本財団の事業も縮小されていった。
 一方、1994年5月28日、職員の収賄事件に関連し、警視庁から家宅捜索を受ける事態が発生した。この事件は、元事務局長が、自社ビルの改装工事に絡みゼネコンから賄賂を受けたものであった。事件を契機に、同年8月5日、運輸大臣から「組織体制・業務運営の改善について(監督命令)」が通達され、これを受けて「組織・業務改善調査会」が設置された。この調査会は、現東京財団会長・日下公人氏に会長を依頼、その他本財団の理事、外部有識者を加えて合計11名で編成された。
 組織・業務改善調査会の使命は、本財団の組織業務の改善計画を早急に立案し、笹川会長に答申するとともに、その実行を監視することであった。そして、同年9月20日、組織・業務改善調査会の日下会長より、本財団の笹川会長に対して改善計画が答申された。改善計画の基本的な考え方は以下のようなものであった。
1)事業管理体制の確立:事業規模の急速な拡大および事業内の多様化に即し、また将来における環境の変化などに対応すため、トップマネジメントの強化を図る。
2)自立的なチェック機能の強化:第三者的チェック機能の充実を図るため、新たに評議員会を設置するとともに、監事を増員し、新たに監事会を設置する。
3)効率的で発想の豊かな事務局の構築:公共団体としての責務を自覚し、効率的で発想の豊かな事務局を構築する。また、職員の能力および倫理意識の向上を図り、モラールの高い職場環境の創出に努める。
4)公正で計画的な業務運営の確保:経理規程その他の内部規程の整備を行い業務の公正を確保する。
5)社会的な自覚に立脚した広報活動の展開:組織の規模と事業内容に見合う社会的に理解を求めやすい適正な広報活動を展開する。
 この答申を受けて、同年9月に開催された第112回理事会において「組織・業務改善計画」が採択され、その後運輸大臣より同改善計画の承認を得て、計画に基づき1997年までに組織改革が行われた。
 1994年10月2日、第1回の執行理事会が開催され、新体制がスタートした。しかし、それもつかの間、その翌年の1995年7月18日に初代会長・笹川良一が逝去。急性心不全であった。
 創立以来33年間職務を遂行してきた笹川会長の逝去に伴い、評議委員会と理事会のメンバーによる新会長選任のための小委員会が設置された。
 小委員会は3回開催され、曽野綾子氏が選任された。その後、理事会、評議委員会での審議を経て運輸大臣の認可を受け、同年12月11日、曽野氏が第二代会長に就任した。
 この10年は、組織・業務体制の改革とトップの交代があり、それらの大きな出来事が融合しながら、新しく「日本財団」として継承と変革を続けてきた10年である。
 
「組織・業務改善調査会」の会議
 
組織・業務改善計画は機関紙を通じて報告された
 
1995年12月、曽野綾子氏が新会長に就任



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