8. 「親学を福岡から全国へ」講演録
講師:高橋史朗
2006年 師範塾親学フォーラム・イン福岡 講演
「親学」を福岡から全国へ〜家庭からの教育再興〜
師範塾理事長 高橋 史朗先生
埼玉では「感性脳科学教育研究会」というものを毎月一回行なっており、東京でも昨年一月から会を立ち上げました。これまでも感性については色々と研究していたのですが脳科学という視点も入れようという事で三ヶ月に一回、二百人規模の大きな会を催しています。最近では障害児教育で脳科学を活かしているという事例を森先生から発表して頂き、重度の障害児に対して諦めないで関わっていったところ和太鼓の音にやっと手が動いて段々と活性化していったという例や、ある小学校でやはり太鼓を叩いて次の子がその音に合わせて太鼓を叩く、つまり共鳴して「共感性」が育って和太鼓という日本の伝統文化を継承する活動を通じてどんどんと心が落ち着いていくという事例もありました。あるいは認知症の方達に「アートセラピー」という事で例えばりんごの絵を書いてもらうと左脳で書くのですが「小さい頃、雪が降っていた時のどんな事を思い出しますか」というと何もイメージが湧いてこない、そこで『雪の降る街を』を歌うと段々と実感が湧いてきて右脳が働きだすといった実践発表もありました。また、先生にご指導頂いて幼稚園に通う親子で茶道をしてもらった時の前頭前野に及ぼす影響も調べました。
一つのキーワードは「人間性知能、人間性知性」(HQ: ヒューマニティ・クオーテント)です。感性教育の話をお母さん方にしますと皆さん「いい話だった」とおっしゃるのですが同時に「でも、学力は大丈夫でしょうか?」という質問が出る、つまり感性を育てるという事と学力は別だと思われているのです。何故、親学フォーラムで脳科学の話なのかと申しますと「もっと脳科学を家庭教育に活かすという事が必要ではないか」と思ったからです。この国ではそういう考え方はありませんでしたから家庭教育の中、子供理解の中に脳という問題を取り入れる、私は「内なる自然破壊」と言っているのですが地球環境などの外側の自然破壊は大体、認識が共有されていると思いますが環境破壊よりももっと深刻な内なる自然破壊である「脳の異変」があっているのではないか、その事をもっと大人達が理解してどう対応するかを緊急にしないと子供達の心の崩壊が急速に進んでいるのではないかと思うのです。私は全国の教育現場を回って荒れている高校中退者やいじめ、学級崩壊などを見てきました。そこで先生を変える事によって子供を変えるという事に取り組んできましたが、この五年から十年で「もう間に合わない」と思うようになりました。つまりモグラがどんどん全国各地で出ている中で叩いても気が付くともう後ろに次のもぐらがたくさん出ている、対処療法ではなくて根本療法をしなければと悟ったのです。
文科省が昨年の一月から森先生も講師に呼ばれて脳科学検討会を始めて昨年十月に報告書を出しました。それには六つの提言がなされているのですが、その第一は「人間関係能力と社会的適応能力の形成のためには愛着形成が重要である」、家庭における愛着というものが人間関係能力や社会力の基盤になる、つまり心の教育や道徳教育、感性教育というものの土台や基盤はやはり家庭であって、いくら心の教育といっても基盤自体が崩壊しているのでは駄目だという事です。後ほど日本文化との関連もお話しますが、岡潔が「日本人は心の民族」と言ったようにこの国の人々は心や情緒といったものを大切にしてきたのにそれがどんどん崩壊している事が近年相次いで起きている事件にも関連しているのだと思うのです。その意味で基盤そのものをどうやって変えていくのかという事を今、考えていく必要があるのではないでしょうか。
それから教育基本法の改正が色々と議論されています。結果的には継続審議という事になりましたが政府案と民主党案には三つの共通点がありました。一つは「家庭教育」、二つ目は「幼児期の教育」という条文が入っているという事、三つ目は「教員には崇高な使命がある」という言葉と「教員の養成と研修の充実を図らなければならない」という内容のものでした。政府案というのは自民、公明両党が三年かかって作り、民主党案はかなり短い間に作ったのですが両者の間では一切話し合いはありませんでした。しかしこの二つの教育基本法改正案に共通点があるという事は親と教師というものがいかに大事であるかがイデオロギーや政党を超えて共通認識されていて文科省の報告書が一定の影響を与えているという事は事実だと思うのです。更には臨界期といって三歳までに脳細胞は六割程度が完成してしまう、「三つ子の魂、百までも」という諺が最先端の科学によって再発見されたという点がとても重要なのです。小泉さんは小沢さんとの党首討論で「しっかり抱いてそっと降ろして歩かせろ」と言いました。日本人が古くから言ってきた知恵というのは実は脳科学の問題提起と繋がっているのです。その意味で日本の伝統、子育ての知恵というものを創造的に再発見する事も課題なのではないかと思います。
長崎で小学校六年生の同級生を殺害した少女は命を奪った事の重大性や遺族の悲しみを実感出来ないといった「共感性」が欠落していました。それなのに学校教育で「命が大事だ」と、どんなに教えてもほとんど効果はありません。学校教育の前提というものが崩れかけているのだと思うのですが子供達の一番の問題点は「他者と共に生きる力」が欠如しているのではないか、その力の核になるのは「社会力」と「人間関係能力」なのです。更には「共感性」「抑制力」「基本的生活リズム」の三つが大事だと思います。授乳している時に携帯電話をいじっているという母親の話もありましたが一番大事な愛着、母と子の信頼が結ばれる時の働きかけが決定的に大事なのに気付いていない、「親心」がどんどん失われているのです。この国に親心をどうやって取り戻すのかが現代の課題ではないだろうかと思います。師範塾が親学に取り組むのを皆さんは意外に感じているかも知れませんが今、親達は非常に勝手で「学校が悪い」「先生が悪い」「世間が悪い」「社会が悪い」「政治家が悪い」と自分以外の誰かに責任を転嫁します。そう言われると大体の教師は引っ込んでしまって言い返せません。今年九月以降、師範塾の新しい講師に広島の山広さんという校長先生に来て頂く事にしているのですが、この方は広島で半分以上の生徒が退学をした高校の教頭をしていらっしゃいました。ビートたけしの番組でこの先生が紹介されましたのですぐに会いに行ったのですが、その方から一番学んだのは「親に対して引かない」という事でした。半分以上が退学していると大半の親は無関心、私も埼玉県のたくさんの高等学校を知っているのですが中退など荒れているところはPTAで緊急集会をやっても十数人しか集まらないというような状況です。実は山広先生は教頭先生の時に鍵山先生の「手でトイレ掃除をする」という活動に共鳴されて親子で学校ボランティアに参加しないかと訴えかけたのです。そうすると何と三百人以上が集まった、先生が親に対して「あなたが変わらないとこの子は変わらない」と明確に伝えたからです。自分以外の誰かが問題だと言っている限りは変わらない、師範塾は「一人からの教育再興」という事をスローガンの一つにしていますが、それは「主体変容」で教育する大人である親と教師が変わる事が一番の近道だと考えているからです。
「親学」の基礎基本について
子供は親が親らしくなくなってしまえば「優しさ」を学ぶチャンスを失う事になります。「育む」という字は「羽で含む」というのが語源で親鳥が子供を抱きしめる愛着、心が育つという事は愛情と信頼で抱きしめるという事なのです。しかし家庭で抱きしめられる事がないのに学校で思いやりを持ちましょう、人権を尊重しましょうと言われても右の耳から左の耳へと抜けるだけなのです。そういう意味で親学の一番大事なポイントは「脳の発達段階に応じて子供とどう関わるべきか多くの親達が共通理解する必要がある」という事です。教師が子供との関わりについて親に言うと「我が家には我が家の方針がある」と言う人がいます。「どう関わるべきかはそれぞれで、こう関わるべきだという絶対的な考え方はない。余計な口出しをしないでくれ」という事です。しかしそれに対して引いてはいけない、子供の脳や心の発達段階に応じてこういう風に関わるべきですよと説得力のある言葉で、いかに納得出来る提起が出来るかという事なのです。説得しようとすれば逃げてしまいますが納得すれば親は変わりますのでその点に気を付けてぜひ脳の発達段階に応じた関わり方という事について共通理解を求めるべきなのです。
その際に「しっかり抱いて下に降ろして歩かせろ」というこの関わり方は「親になるための学び」と「親としての学び」という二つの意味を持っています。前者は親になるための準備教育で、今は気付いたら親になっている若い親がたくさんいて「親になるとはどういう事なのか」という準備教育を本来であれば家庭科で行なっていく必要があるのですが非常に欠けています。「しっかり抱く」という段階は「愛着」で「下に降ろす」は「分離」、そして「歩かせろ」は「自立」でこれが子供の発達過程なのです。子供は一番信頼出来る大人に甘え、依存してやがては反抗しながら自立していきます。この甘えて依存するという段階が愛着で「三つ子の魂、百までも」と言ってきたのです。ところが厚生省は平成十年度の『厚生白書』で「三歳児神話には少なくとも合理的な根拠がない」と発表しました。一方で昨年六月に日本学術会議が出した『第十九期子供の心特別委員会報告書』は「三歳までが決定的に大事だというのは科学的事実だ」とはっきりと示しています。お母さんでなければならないとは言っていませんが三歳までの関わりが大事だと明示した、その意味では注目すべき事です。今、日本の子供達は十分に親に甘える事が出来ないし依存出来ない、それから反抗出来なくなっています。それは母性的な関わり、父性的な関わりを持つ事の出来るお父さんやお母さんがどんどんいなくなっているからです。
ところが一つ、論争点があります。それは「父性、母性」「父親の役割、母親の役割」というのは固定的性別役割分担という「差別」に繋がるのではないかという議論が出てきたからです。これはきちんと整理する必要があって今、「親学習」の広がっている地域は大阪、兵庫、奈良、滋賀、栃木、埼玉の六府県です。ところが「親学習」あるいは「親学」の中身は非常に稀薄で基本が不明確です。師範塾の親学は何かをきちんと立てて問題提起していこう、まず親に対して明確にメッセージを伝えようではないかと考え、第一のメッセージは「しっかり抱いて下に降ろして歩かせろ」が子供への関わり方の基礎基本だという事、二番目は「脳には臨界期があるという事について共通理解が必要である」、三つ目は千利休の残した「守破離(しゅはり)」という言葉です。形から入って躾をするという事がまだ教育界では共通理解がなくて押し付けだとか強制になるという方もいますが歴史文化の中で受け継がれてきたもの、形の奥にある心に気付かせる事が大切なポイントなのではないでしょうか。「聞く作法、守り尽くして破るとも、離るるとてもこれを忘るな」、離れるという部分が自分らしさや個性、創造性の段階なのです。戦後は個性尊重と言ってきましたがそのベースとなるものは「守」なのです。日本の歴史や文化、伝統を貫いている「形」というものを継承しながら茶道、華道、剣道、柔道と「道」の付くものは最初に形の継承から始めますが、それは子供の興味関心で選択する事は出来ないのです。俺流で受身は嫌だと思ったら止めなさいという事になる、必ず基本の型というものを継承しなければならない、これが教育の出発点なのです。家庭においても形の継承である躾というものを親がしっかりと教えなくてはならない、身を美しくするというのは形から入る訳ですが、その形を守り破りそして形から離れるというのが本当の個性や創造性なのです。先程「父性、母性」と申し上げましたが「男らしさ、女らしさ」という事が混同されています。極端な例では端午の節句、桃の節句という事を幼稚園などでやって「男らしさ、女らしさを押し付けている」と保護者から攻撃されてお辞めになった先生もいらっしゃいます。それでは「父性、母性」「男らしさ、女らしさ」をどう考えればよいか、親学ではその点をきちんと理論として整理しようと考えています。内閣府が昨年末に男女共同参画基本計画の第二次計画を発表しました。その中には注目すべき事が書いてありますのでご紹介します。
「ジェンダー・フリー」という用語を使用して、性差を否定したり、男らしさ、女らしさや男女の区別をなくして人間の中性化を目指すこと、また、家族やひな祭り等の伝統文化を否定することは、国民が求める男女共同参画社会とは異なる。例えば、児童生徒の発達段階を踏まえない行き過ぎた性教育、男女同室着替え、男女同室宿泊、男女混合騎馬戦等の事例は極めて非常識である。また、公共の施設におけるトイレの男女別色表示を同色にすることは、男女共同参画の趣旨から導き出されるものではない。
私は五月に東京都の男女共同参画審議会の委員に就任したのですが、東京都の条例には前文に「男女は互いの違いを認めつつ」と書いてあります。また、『親学のすすめ』(モラロジー研究所)を読んでの私に対する批判を少しご紹介します。
高橋史朗氏によれば女性と母性、優しさと厳しさは男女によって別個に分担されなければならない。女性、母性の性別役割分担を守らなければならない。当然ながら正しい父親とは外で働く男であり、正しい母親とは家で子育てをする女性である。
今まで親学について色々とお話をしてきましたので踏み込んで問題提起させて頂きます。元々、親学がスタートしたきっかけは二〇〇一年に読売新聞が世界学長会議でのオックスフォード大学トーマス学長の提言を三日間連載した事に端を発します。それは「色々な学問があるけれど一番足りないのは親学ではないか。つまり親が親として育っていない、親心が成熟に向かっていない事が一番問題だ」というような主旨でした。それを受けて日本で親学会がスタートし、私も副会長を務めさせて頂いているのですがその親学会が核となりPHP研究所と日本財団が連携して、元々はPHP親学教育政策研究というところで提言を出したのです。それは「学校を親学の拠点にしよう」というもので幼稚園や保育園も含めた学校は単に子供をどう指導するかというだけではなくて親が親として育っていく場とならなくてはならない、そのためには「親学アドバイザー」というものを養成して学校へ派遣しようという提言だったのです。そして親学研究会というものが昨年十二月にスタートして月二回、議論を重ねています。脳科学に基づいて親がどう子供と関わるべきかという事をきちんとしたカリキュラムにしようと一般の親向けプログラムと親学アドバイザー向けプログラムというものを作っています。先程の『親学のすすめ』批判に対する私の反論もご紹介します。
私が監修し親学会が編集した『親学のすすめ』にはどこにもこのような正しい父親、正しい母親については記述していません。父親は外で働き、母親は専業主婦であるべきだと主張した事もありません。いかなる性別役割分担の形式と言えどもそれが主体的選択に基づくものである限り、それを否定してはならないし、また特定の性別役割分担を強制してはならないと考えているからです。しかし「しっかり抱いて下に降ろして歩かせろ」という日本人の子育ての知恵を凝縮させた格言が示すように子供が自立するためにはしっかりと抱くという「愛着」、下に降ろすという「分離」のプロセスが必要不可欠であって、しっかり抱くというのが母性的な関わり、下に降ろすというのが父性的な関わりと考えています。優しさというものは母親の愛着から子供の心の中に育っていくものです。その愛着が狂っているとすれば子供達に心を育むとか思いやりを育てる、命を大事にするという事は単なる建前のスローガンになってしまうのです。一方、父性の特徴は「義愛」です。秩序感覚、ルール感覚、規範意識、人間としてのマナー、それは教えねばならないものです。例えて言うなら北風の厳しさと太陽の暖かさ、これが父性と母性だと思っています。
父親は子供を産む事も授乳する事も出来ません。胎児期と乳幼児期は特に母親との身体的、感覚的な接触の相互作業によって子供の心が安定しその子の大きな基盤となります。一般に子供は母親から心の安定を、父親には外部世界の知的好奇心と刺激を期待しています。数々の科学的実験によっても父親と母親に対する子供の反応は初めから異なっている事が明らかにされています。例えば母親が相手をしている時、子供は穏やかな反応をするのに対し、父親が相手をしている時、子供は強い好奇心を発揮して激しい反応を示します。この事から親の側にも父と母とでは子供に対する態度に対して生得的な違いがあるだけではなく、子供の側にも父と母とでは子供に対する反応が異なるように生まれつき仕組まれている可能性が高い事が分かります。父親には子供の心を活性化し自立を促し社会のルールなどを教えるという独自の役割があります。このような意味で基本的には母性的な役割を母親が担い、父性的な関わりを父親が担うという事が人の進化の歴史から見ても自然であると言えます。もちろん父子家庭、母子家庭において一方の親が母性及び父性的関わりの両方の役割を果たす必要もあります。父親と母親の性別役割分担を強制すべきではありませんが、子供にとっての父親と母親の役割を認識する必要があります。この点を踏まえた上でどのように役割分担すべきか夫婦で十分話し合うべきです。温かさや優しさは母親、厳しさは父親だけに求められるものではないから性別的役割分担を固定的に捉える事は問題です。時には父親が母性的関わりを、母親が父性的関わりをする事も求められるのです。
師範塾はこの六十年間の不毛な政治的対立、イデオロギー対立をどうやって新しい地平に導いていくか、それは「育(いく)」の視点に立つしかないと考えたのです。「何が子供の心を育むか」「何が子供の脳を育むか」という視点、何を教えるべきかという「教(きょう)」の視点では必ずイデオロギーは対立します。大事なのは何が子供のアイデンティティを育むのか、だから男らしさ女らしさというものを形から入って教える事はアイデンティティを育むためには必要不可欠なのです。それを差別だと言ってしまっては育む事が出来ない、「育」という視点に立てば対立を超える道が見えてくるのです。私はいつも学生達に尾形光琳の『紅白梅図』を見せています。紅梅と白梅の間に広い川が流れている、これが日本人の感性、バランス感覚なのです。一見対立する男と女、お父さんとお母さん、教えると褒めるなど様々なものがあります。教育はある意味で綱渡りだと思うのですが綱渡りをする時には長いバランス棒がなければ細い綱の上では落ちてしまうのです。「男のくせに、女のくせに」と言いすぎたら子供は駄目になってしまう、形だけを強制しすぎたらかえって反抗したり事件を起こしたりしてしまうのです。「親は躾をしないように」という類の本も出ていますが極端をするとそれに対する様々な問題が出てくるのです。父性母性という時には「しっかり抱いて下に降ろして歩かせろ」という基本を大事にして父性的な関わり、母性的な関わりが大切なのです。
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