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見開きで惹きつけるマンガ・何でもありの日本民族 【里中満智子】
 
里中: 今日は、なぜ日本のマンガがこんなに世界に広まったか、その理由について私なりに考えたことをいくつかお話ししたいと思います。
 日本のマンガがどうしてこんなに世界に広まったかにつきましては、近年この現象を知った方は、「日本は作品がたくさんあるから、面白いものもたくさんある。だから、世界のいろいろな読者から注目を浴び、結果としてトップを行っている」と思われている方が多いようですが、もともとの原因は別のところにあって、結果として今のマンガの多様性があると思います。
 簡単に言ってしまいますと、日本人の民族性に根ざすものもあると思うんですね。日本人というのは割と外から入ってきたものでも、いいものは何でも受け入れようとして、あまり宗教的制約などは考えない。その「何でもあり」という根底のところにある民族性ですね。これは、万葉集までさかのぼってお話しできると思います。どんな分野でも、日本人というのは、「これはこういうものである」という枠を決めてしまうことをあまり考えないと思うんですね。
 1960年代の終わりから70年代にかけて、日本のマンガをアメリカに売り込もうとしたときに、アメリカからは「これはマンガではない」と否定されました。コミックは、必ずヒーローがいて、美しいヒロインがいて、正義は必ず勝つものでなければいけない。そういうアメリカン・コミックのヒーロー像から見ますと、日本のマンガのヒーローは、時として挫折し、苦しみ、悩み、あるいはかなりの確率で不細工です。「不細工なのがヒーローとはとんでもない」「だいたいモノクロとは何だ、地味だ」「ページが多すぎる」「ハッピーエンドじゃないからすっきりしない」と、さまざまな理由で否定されたわけです。
 ところが、日本のマンガは、海賊版という形で自然発生的にアジア各地に広まっておりまして、アジアの少年少女たちに親しまれていた。そこで、外国でも受け入れられるんだというので、アメリカばっかり向いていた気持ちがアジアの方に向いた、という経緯があります。また、日本のテレビ用アニメーションのほとんどは原作がマンガであるので、ヨーロッパの人たちもアニメーションの原作としてのマンガはどういうものかということで、アニメーションはジャパニメーション、コミックはジャパニーズマンガというふうに広まっていったかと思います。「日本型のマンガ」と言われますが、日本人はマンガという道具を使って何でも表現しようと思ったにすぎないのです。マンガという表現形式を通じて、ありとあらゆるジャンル、テーマ、キャラクターを描こうとした。そういう日本人の「何でもあり」が、日本のマンガの多様性を生んだのだと思います。
 日本人のつくり出すキャラクターの多様性については、マンガの成立とも関係があると思います。ほかの国においてマンガ家になる方は、まず第一に絵がうまくなければいけない。絵描きという職業の中の一部がマンガ家であるのが常識でした。きちんとしたデッサン力がないとマンガ家にすらなれないわけです。ところが、日本の場合は、私などきちんとしたデッサン力を持っておりませんが、実作者として40年近くやっております。お隣の弘兼さんはとてもデッサン力があって、絵描きとしても十分にやっていける方ですが、私はとても絵描きとしてはやっていけません。にもかかわらず、「マンガ家でございます」と言えるのは、日本のマンガにおいては、キャラクターをつくり出すときに、最初に人間のしっかりした骨格ありきではなくて、キャラクターデザインありきだからです。
 これはアニメーションの動きにも言えます。ディズニーアニメなどは、まず最初に人間の動きをフィルムに起こして、それを絵に置き換えて動きをつくるので、なめらかで人間らしい、自然な動きが描けます。そういうお金と手間のかかったアニメーションづくりをしてきた。それに対して日本のテレビアニメの黎明期には、とにかく毎週30分番組を1本つくらなければいけないので、極力経費を削減するために、動きを削減してデフォルメしてしまった。でも、このデフォルメこそが、この世にありえない動き、この世にありえないキャラクターづくりにつながっていくわけです。
 骨格とはこうである、生き物の顔形とはこうであるという前提なしに、まずデザインありき。そして、生き物がこういう骨格を持っていたらこう動くという前提抜きに、アニメーションとしての動きが確立されていったと思います。結局はそれが日本独自のマンガ、アニメーションの表現を生んできた。日本のマンガは、多種多様なキャラクターがいて、多彩なジャンルやテーマがあってすごいと言われますが、もともとは、ないものを工夫するところ、あるいは絵が下手でもぜひともマンガを描きたいという、さまざまな人の情熱から生まれてきたのだと思います。
 ちょっと話が逸れますが、アメリカのマンガ家は、原画を売るのを前提としてオールカラーで描きます。1枚の絵として額縁に入れて売るわけです。印刷原版が手元にあれば何枚でもつくれるから、原画を売らない日本人マンガ家は不思議がられました。でも、日本のマンガ実作者たちの多くは、1枚ずつ額に入れて売る絵としては考えていません。セリフにしろ、動きにしろ、画面構成にしろ、構図にしろ、無意識のうちに「見開きで見る」ことを前提に考えて、モノクロ画面をつくっております。
 これは、すごく大袈裟な言い方になりますが、人類が本という形を考え出して初めて、その本という形を生かした表現方法なのです。モノクロ画面で生理的に人間の視線がまずどこに行くか。人間の自然な目の動きとしてどう流れていくか。それを無意識のうちに計算した画面構成になっております。そういう画面構成のつくり方は、見開きであって初めて生まれてくる。また、モノクロだからこそ動き・構図がはっきりと手に取るようにわかる、ということもあると思います。
 さまざまな理由があって、さまざまな苦難を乗り越えて、日本のマンガは隆盛をきわめたと言われるようになりました。アジアの若者たちの多くも日本のマンガに親しみ、注目しております。大変パワフルな作品が、韓国、台湾あたりでたくさん生まれております。日本のマンガはやがて負けるのじゃないかといらぬ心配をする方もいらっしゃいます。何年か前からアジアマンガサミットをやっておりますが、始めたころには、マンガは作者の国籍や民族性に関係なく読者と作者の間で成り立つものですから、きっと10年もたてば日本を追い越す作品が100も200も出るだろうと期待しておりました。今のところまだ、それには至っておりません。
 韓国において、今年のベスト10本を選べというとすぐ出てきて、日本のベスト10本と遜色ありません。ところが、日本でベスト200を選べというと、年間200本ぐらいたちどころに出てくるんですね。その中にある多彩なキャラクター、多様なジャンル――この多様性は、すべてを受け入れて、結果として面白ければいいじゃないかという、わが国の土壌に少しは要因があるのかなと思っております。
 
 谷川 ありがとうございました。里中先生は以前、「私は絵を描くよりもストーリーをつくったりするのがすごく好きなんだ」とお話しされていました。
 実は先日、大学入試センター試験の監督をしたんですが、センター試験で測っている学力って何だろうって思うんですよ。いろいろな知識を整理したものをうまく引き出せる能力は、確かにあそこで測れる。でも、ストーリーをつくったり、何かを自分なりにデザインしていく能力は、学校では測っていないのではないかと、最近すごく思うんですよ。ストーリーをつくる力が今の若者たちには抜けているし、今の大人たちも自分の人生や仕事をデザインしていく能力が欠けているような感じがするんです。日本の国もそうだけれど。
 続いて、弘兼憲史先生のお話を伺いたいと思います。よろしくお願いします。
 
「同世代にメッセージ」を発信できるマンガ創作 【弘兼憲史】
 
 弘兼 今、里中さんからデッサン力があると言われてドキッとしました。私は今、そこが一番のコンプレックスになっておりまして、この間もかわぐちかいじ氏と2人で「俺たち絵が下手だな」って悩んでいたところなんです。
 私は、昭和41年から45年まで早稲田大学で学びまして、4年間、マンガ研究会に入っておりました。同じころ、明治大学のマンガ研究会にかわぐちかいじ氏がおりましたし、立教大学のマンガ研究会に西岸良平氏がおりました。そのあたりの人間がまだ生き残って日本のマンガをつくっているんですが、これは、日本のマンガが外国と違って、かなり高い年齢層の人が読むメディアであることの表れだと思います。
 日本のマンガの歴史は、団塊の世代とともに徐々に発達していったと言っても過言ではないと思います。私は昭和22年生まれですけれども、子供のころはテレビがございませんでした。それで月刊マンガというのが、「冒険王」「マンガ王」「少年おもしろブック」「少年画報」など、さまざまな雑誌がありまして、それを裕福な家庭の子が1冊買い、それを皆で回し読みするという世代でした。したがって、現在50代半ばの人間は、マンガを読むことに抵抗を持たないで大人になったと思います。ただ、サラリーマンになったころ、まだマンガが子供向けだったので、あまり読まなくなった人も多かったんですが、それでも日本のマンガは着実に大人向けに成長していきました。
 私たちがちょうど大学生のころ、最近の大学生はマンガを読む、というのが一つのエポックになった時代がありました。「片手に朝日ジャーナル、片手に少年マガジン」という言葉ができたほど、団塊の世代は、中学、高校、大学のころマンガに親しみました。それが、我々がサラリーマンになったころ、「ボーイズライフ」から「ビッグコミック」系の青年誌が登場して、大人が読むマンガというのがだんだん発達してきました。
 私は、「島耕作」というサラリーマンものを描いておりますが、それは自分が35歳のときに昔勤めていた会社の同期の連中が課長になっていたので、そのへんを取材して『課長島耕作』をつくりました。私は今まで、基本的に自分の同世代に向けてメッセージを送るという形でマンガを制作してまいりました。島耕作は、実は私と同じ年齢に設定してありますので、現在55歳で、うまくいけば出世しているし、リストラにあっている人もいるし、大変なサラリーマンの姿を、エンターテインメントと同時に情報も入れつつ描こうと思っております。
 「ビッグコミックオリジナル」に『黄昏流星群』というマンガを描いていますが、これはテーマが中高年のラブストーリーで、高校生や大学生は読んでも面白くないと思われるかもしれません。しかし、我々マンガで育った世代の大人が、60になっても70になっても読めるようなコンテンツのあるマンガをつくっていこうと、ある種の使命感を持ってマンガをつくっております。日本の人口1億3,000万人のうち約40%が、50歳を超えております。つまり、マーケットが着実に50歳以上に移行している段階ですから、これからもっと高齢者向けに読まれるマンガが出てきてもいいのではないかという気がします。
 アニメーションは、まだどちらかといえば若い方の分野になっていますけれども、ちょっと手前みそになりますけども、『人間交差点』がアニメーションになると聞いておりますし、『黄昏流星群』もラジオドラマになるらしくて、これからアニメーションの分野にも大人向けのものが進出していくのではないかと思っています。
 本来、マンガは非日常を描いた笑いとかエンターテインメントが中心になると思うんですが、その中に私はある種の情報を入れています。『加治隆介の議』は、私なりの政治観を入れつつ、反対の主義も入れつつという形で描いたところ、日本青年会議所の連中を中心にたくさん読まれたらしくて、それを読んで触発されて国会議員になられた方がかなりいらっしゃいます。これは面映ゆいことですけれども、作家冥利に尽きるという気もしまして、彼らが政治家を志してくれたというのは、メッセージ性が高くて影響力があったのかと、大変うれしく思っております。
 またちょっと手前みそになって申し訳ないんですけども、現在、石原行政大臣、石破防衛庁長官、民主党の前原さん、自民党の山本一太さんなど、党派を超えて「『加治隆介の議』をテレビドラマ化する会」というのを立ち上げてもらっていますが、彼らももっと日本のマンガ文化をつくろうではないかと、違う側面から応援していただいているというのが現状です。
 マンガにはメッセージ性がありますけれども、プラスのメッセージとマイナスのメッセージがあると思うんです。マイナスのメッセージで一般に言われるのが、先ほど森川先生のお話にも出ました、性的な表現や暴力表現でして、こういうマンガが全く子供たちの教育的な問題で影響がないかと言えば、ないとは言えないという面もあると思います。
 ただ、それをいろいろな面で規制する動きがありますが、良書しか読まない子供がいい子供になるかというと、そうではないような気がします。良書も悪書もあって、清濁併せ呑むという言葉がありますけども、いずれも読む中で子供たちに判断させる方が、正しい成育の仕方をするのではないかという気がいたします。何が悪書かという決め方は難しいですけれども、出版界も自主規制という形で、幼児に対する性的表現の強いものはつくらないという姿勢でやっています。御上から規制されることに関しては、少し間違いではないかという気がいたしております。
 日本の産業は大変衰退しておりまして、とくに製造業は中国によって軒並みやられている。現在、日本が世界に負けない3つの分野があると言われていまして、それはゲームソフト、アニメーション、マンガなんですね。言葉を変えれば、今日本は一大娯楽立国という形になりつつあるのです。この分野を衰退させることは日本の経済にとって大変厳しいことになりますので、これからもぜひ皆さんにマンガ文化を支援していただきたいと思います。
 
 谷川 何だか結論が出てしまったような感じがするんですが。私は、日本のマンガの特徴は、子供から大人まで、あらゆるジャンルのものがあることだと思うんですよ。
 『黄昏流星群』は、自分と同じような世代の人が恋をしていく話なんですけど、結局破れていくんですよね、だいたい。
 
 弘兼 いやいや、成功する回もあるんです。どちらかといえば明るい結末にしようと思っているので、恋が破れても一条の希望の光が差し込んでいるという形で終わらせようとしているんですけど。
 
 谷川 あれは、老人ホームとかで力強い味方になっているらしいですよ。
 ところで、暴力やセックス描写の問題が出ましたが、これについては、実は里中さんが日本で一番応えてきている方なのです。マンガの性の問題、暴力の問題に対して里中さんはどう考えてこられたか、そしてアジアの人たちにどういうふうに言ってきたか、ちょっと話していただけますか。
 
 里中 第一に宗教上の制約もありまして、とてもそれが受け入れられないという国の方たちもいます。ただ、わが国においては、マンガだけではなく、いろいろな規制が緩いですね。なぜ緩いのかを、アジアの方たちにお話しするときに、まず表現の自由が日本では守らなければいけないものとして存在するということ。表現の自由と似たようなもので、集会の自由、出版の自由、報道の自由、思想・信条の自由もありますが、自己責任においてすべて自由であると。じゃあ、これがなければどうなるかと、海外の方からよく言われるんです。
 どうして日本は規制しないのだ。どうしてあなたたちマンガ家は、ある程度のベテランになったら、若いマンガ家に対して「こんなものを描いちゃいけません」と命令しないんですか。そういうとんでもないことまで言われたりするわけです。
 そのときに申し上げるのは、日本が危ういものまで出す危険を冒しながら、こうした自由を守ろうとしているのは、過去の苦い経験に基づくのである、ということです。日本とアジア近隣諸国との過去の問題があります。大雑把に言いますと迷惑をかけたわけですね。どうしてそうなったか。大本営発表しかなかったからです。報道も、集会も、出版も、表現も、思想・信条も自由がなかったわけです。これは怖いことです。軍部の言うことを素直に信じて動いてしまう。で、結果として、「ああ、いけないことをした」と思う人もいたでしょう。
 『鉄腕アトム』で、何も知らない心の真っ白なロボットが悪い博士に教育されて、これが正義だと信じて、客観的に見ると悪いことをしていた。それに気づいたときに、悪いロボットは嘆き、悲しみ、悩むわけですね。それと同じような苦しみが日本人にありました。戦争が終わってから、過去のいろいろな事情を詳しく知ったときに、さまざまなショックが襲いました。そして、二度とこういうことをする国であってはいけないと、私たちは反省し、その原因を取り除こうというので、表現の自由、出版の自由、報道の自由、その他の自由を認めている。
 そういう反省の上に立って認めているんですと、アジアの方たちにお話しします。教科書問題にしてもそうですが、こういうことをきちんとお話ししないと、誤解が誤解を生んでいくと思います。せっかくマンガを通じてアジアの中で新しい共通の価値観が育っているんですから、マンガを通じて私たちの考え方を理解していただきたい。そのためには、なんでこんな表現をするんだと言われることについても、表現の自由からお話ししていきたいと思っております。だから、暴力表現、性表現は、最終的には作者の自己責任だと思っています。そして、それを選び取る読者の自己責任だと思っております。
 ここからは個人的な感情も入りますが、性的表現、暴力表現、喫煙シーンを見せなければいいというのは、臭いものに蓋だと思います。「子供にこんなものを見せていいんですか」と、よくお母様方から言われますが、作者は見せていいと思って描いているのではなく、描きたいから描いているだけです。それを子供が見る、見ないは、親の教育指導の問題であると思っております。「あなたにはまだ早いんじゃないかしら。よく考えて選びなさい」と言える親でなければ、子供を持つ資格はないと思っております。それが言えないから、御上からもの申してほしいというのは、教育現場から逃れる卑怯な親だと思っております。話がまた逸れてすいませんでした。
 
 谷川 ありがとうございました。
 大塚先生と阿部先生に、今のお2人のマンガ家の提案について、簡単な感想、コメント等をいただければと思います。大塚先生、いかがでしょうか。
 
 大塚 このイベントの事務局から出演依頼があったときに、事務局の方が、これは「日本は世界に何をプレゼントするのか」というテーマのシンポジウムで、それは具体的には愛国心を世界にプレゼントするという意味なんだとおっしゃったんです。そういう考えは非常に不愉快なので、不愉快な顔をしようと思って来たんですけれども、里中満智子先生の非常にリベラルなお言葉を聞いて、その必要もなかったかなと思っております。
 暴力表現とか性表現の問題に関しては、若い方にとっての大塚英志は『多重人格探偵サイコ』で徹底的な暴力表現をやってきた作家ですから、そういう立場に立って、我々がなぜ暴力表現を描きうるメディアとしてのまんがというものを戦後史の中に形成してきたのかということを、後でOHPを使って説明します。
 
谷川 阿部先生、いかがでしょうか。


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