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3 感情
 牧野先生に振りをいただいてちょうど良い。キャラクターにとって感情の問題がすごく大事だということをいくつか例示して考えてみる。みなさんご存知の『義経千本桜』、『女殺油地獄』といった日本の伝統的なキャラクターっていうのは極めてエモーショナルで、本当に人間の存在ギリギリのところで活躍するというものが多い。フランスのイヴ・エンスラー作でモニーク・ウィルソンが演じた『ザ・ヴァジャイナ・モノローグス』というパフォーマンスがある。感情の痛いところに突き刺さってくるパフォーマンスで、その中で出てくる顔の表情が日本のマンガの顔の表情に非常に近いように見える。顔のダンス、顔の彫刻みたいなハイカルチャーなものなんですが、顔の表情の部分は本当に、サブカルの真ん中にあるマンガのキャラクターに非常に良く似ている。
 感情をどう扱うかというのがやっぱりひとつの肝のように思う。感情を考える時に一番重要なシステムがドーパミンと呼ばれる神経伝達物質を出すシステムで、特にA10神経と呼ばれ、快感をもたらす神経で、非常に面白い研究がいろいろある。例えばセックスだとか食べ物だとかそういう生きるために必要なものでもちろん快感が出たり、たばことかお酒好きな人はそれでもA10が出るんですけど、例えば最近の事例だとモントリオールでクラッシックの音楽の学生に一番好きなクラッシック音楽を聞かせてもA10がでた。実は活動している脳の部位は、セックスしている時とクラシック音楽を聴いている時と同じなのだ。非常に不思議とも思える。クラシック音楽なんて生命体を維持する必需性のない、非常に抽象的な音の配列がもたらす快感なのに、脳活動としては、もっとも原始的で生物に欠かせない快感と同じであるということがわかってきたのだから。昔の脳科学では、感情を、いわゆる爬虫類の脳の部位の古い皮質内で作られる原始的で理性より低級なものと捉え、それを大脳皮質の理性が抑えると考えていた。どうやらこの考え方を修正しなければいけない。つまり、感情というものは原始的で低級で理性よりも下だという考え方は、違っている。昔の実験は、ネズミがドーパミンを出す神経細胞を刺激して、中毒症状になり死んでしまうという単純なもので、それをもって感情は原始的で低級なものと思い込んでいた。10年前にルネッサンスがあって、理性の働きの中に感情がすごく串刺しして入って来ていることがわかってしまった。感情は、例えば数学者が定理を考えようとか、財団の理事長が世界平和の方向性を考えようとか、いわゆる理性で判断するような場合にも感情が入ってきてある重要な働きをすることがわかってしまった。象徴的な事例として「最初のペンギン」の話がある。「感情というのは不確実性に対する適応である」というのが、生き物にとって感情が大事であることを表象する、現在脳科学の統一見解になりつつある。つまり生き物が進化してきた環境は不確実で、どこに行けば食べ物があるか、どこに行くとメスと会えるのか、どこに行くと敵がいるか、全ては不確実という状況である。結局は正解がない中で判断し決断し行動することが要求されて、その時に感情のシステムがフル回転するということがわかってきた。ペンギンたちは水辺でなかなか飛び込めないで列を作って譲り合っているように見える。水の中にはエサがあるんだけど同時にオットセイとかそういう捕食者もいるので、できれば後から飛び込んだほうが安全だからだ。だれも飛び込まないと解決しないので、だれかが覚悟を決めて最初に飛び込む、最初に飛び込むペンギンを「最初のペンギン」(ファーストペンギン)と言う。英語圏では勇気を持って新しい分野にチャレンジする人たちの意味を持ちます。その決断の時に働くのは、もうロジックでもないし知識でもない、正解が無い中でやってしまうという感情の動きだということになる。
 ここら辺からはキャラクターの経済学でもっとも重要な部分になってくる。要するにキャラクターもある意味で正解がない世界で、方程式に従って設計すると売れるというわけではない。そういう現象を理解する時に結局人間の脳がどう動くか、が不可欠である。何が当たるか不確実で、何が起こるかわからないという不確実性に人間がどう対処するのかということを研究する必要があって、それをやってきたのが行動経済学、ビヘイビオラル・エコノミックスという分野である。2002年にノーベル経済学賞のダニエル・カーネマンが受賞して一般的に知られるようになった。彼らがやってきたことを一言で言えば人間は不確実な状況の中でどう判断し行動するのであろうかという研究である。結論から言うと古典的な経済理論で予想される最適な行動からズレるということが研究結果である。例えば宝くじに対する最適投資戦略は何かという問題の正解は、買わないということなのだけど、みんな買う。人間は経済的な合理性に従って行動しないということが、ギャンブルを例にすると一番わかりやすい。ギャンブル以外のあらゆる場面もそうである。
 人間の行動を説明できなければ経済学はいらないわけですから、経済学者にとっては自分たちの存在意義を問われている大変なチャレンジである。それをやってきたのが行動経済学で、さらに先ほど申し上げたドーパミンっていうのが結局脳の中でうれしいことがあった時に出るわけですから、あれが要するに報酬の通貨になっているわけですけれども、報酬の通貨であるドーパミンの働きなどと組み合わせて神経経済学という新しい分野になりつつある。例えばコンビニに入って消費者が何を買うか。キャラクターが付いているから買うのか、何かあるルールに従って買っているというよりも気分で買っているのか、結局それを最後に突き詰めようと思ったら脳の中の報酬系の働きを考えることになる。人間の脳っていうのは簡単に言えばドーパミンの出る量を最大化するように進化する、または学習する。でもドーパミンが出るための嬉しさとタイミングは、人によって全然違う。例えば数学者なんかは10年も20年も難しい問題、解けない問題を考えるのが何よりもドーパミンを出すわけで、数学者は毎朝起きるときょうもあの解けない問題を考えられるぞとかってうれしくてしょうがないわけですね。だからそれは一種の脳内文化で、その脳内文化がどうできてくるかって極めて難しい方程式を解くことになる。ドーパミンを出させるための嬉しさだったり、脳の進化だったり、そこら辺がキャラクターというものの本筋だと考えられる。
 この分野で極めてエポックメーキングな研究が2003年に、ケンブリッジ大学のグループから報告された。つまり不確定なこと、不確実性が脳にとっての嬉しさを増大させることをドーパミンの活動で見つけた。水とかエサをもらえるかどうか、不確実な情況下で期待と不安を持っているおサルさんに、エサを上げたときにドーパミンが多く、もっとダラーっと長く出ることが実験結果でわかっている。要するに脳は不確実性がうれしい。だからギャンブルをやってしまう。サルから始まって、どうしてそういう脳の構造になっているのかというと、この背後には非常に深い話がある。もともと学習理論で強化学習というものがある。これは要するに先生がいて正解を教えてくれる学習とは違って、強化学習というのは簡単に言うと何かあるアクションをとった時にそのアクションの結果脳の中でドーパミンが出た、そうすると今度は、その上流にさかのぼってドーパミンを出す原因となったアクションを更に強化する、そういう学習だ。例えば、数学者の場合だと問題を考えてドーパミンが出るわけだから、その上流にある問題を考えるという学習を強化する。
 一般的に言うと、メイド喫茶に行くとドーパミンが出る、その回路をどう強化するかというのは個々人の責任という脳内文化を作るのです。この強化学習における極めて重要な問題は、常にこれをやるとうれしいとわかっているという確実な報酬源を利用するということと、未知の報酬源を探索するということの間のバランスをどうとるかっていう問題である。これは理論的にも極めて難しい問題で、つまり生物としては例えばうれしいことを、これやると確実にうれしいということがわかっていることばっかりやっていると先細りになってしまう。一方で未知の報酬源を探してハイリスクなことばっかりやっていると報酬頻度が少ないのでつまらない。そのバランスをとるというのが非常に重要なのである。これは強化学習の中でずっといまでも未解決な問題として残っているわけですが、この問題を考える上で、さっきのシュルツの実験というのは極めて重要なヒントを提示している。つまり不確実な状況、不確実なことをある程度好むという傾向を脳の報酬系に入れておくと、ある程度探索してくれる。そういう形で脳の中にビルトインされたそういうシステムがあるということが徐々に見えてきているわけです。
 この問題を別の視点から議論したのがボールビーというイギリスの心理学者で、ティーンエイジャーになって問題を起こす子どもの共通点について研究した。その結果、彼が達した仮説は、子どもにとって幼少期に安全基地を与えてくれる保護者が非常に重要で、そういう保護者がいない子どもは後に問題を起こす確率が高いという理論です。この安全基地というのは過保護という意味ではなく、子どもが放っておいても自由に探索する場合に、その探索のための前提条件になる安全基地です。例えば、何か危ないことが起こりそうになったらちゃんと注意してくれるとか、何かがあったらちゃんとその後始末をしてくれるというような安心感があって、初めて子どもは自由な探索ができるということです。そのような保護者に対して子どもが持つ感情をボールビーは『愛着』と呼び、子どもの発達段階においてもっとも重要な発達課題は、何かに対して愛着を持つことで、この課題に失敗した子どもは問題を起こす可能性が高いと結論付けている。つまり自由に探索するための保護という安全基地だということです。ボールビーのこの説は現代の報酬系とか、感情のシステムの強化学習メカニズムに照らして極めて納得がいく。例えば組織の中でも共通するモデルとして使える。ある組織に愛着を持つということはその組織に守ってもらうということではなく、その組織を安全基地として自分が自由に探索するための前提である。素晴らしい理論だと思っているんですけれども、こういうことは最近の脳科学における感情システムの研究とも一致しています。
 記憶のアーカイブが創造性のためには重要だと言ったわけだが、記憶のアーカイブというのは探索のための安全基地になっているのです。つまりピアノで即興演奏を自由にするといってもそれはある程度ピアノのスキルが脳の中に安全基地としてあってこそのことです。マンガ家の方が自由にマンガを描くのも線がちゃんと引けてのことだと思う。この安全基地ないしはそれと結び付いた記憶のアーカイブの問題というのは極めて重要で、キャラクター創造の場合もキャラクターをちゃんとアーカイブとして整備しておくということの意味が、ここら辺にあると思います。イッセイミヤケの事務所には、パリコレにデビューしてからの服を全部、実物で保存している。何か新しいものを創造する時に邪魔になりませんかと藤原大さんっていう『A-POC』っていうブランドを作っている方に聞いたら、そんなことはなくて三宅さんが過去に作ったアーカイブがあるから安心して創造できると言っていました。恐らくそれはこういう何か安全地帯のような脳の働きの理屈に合っているんだろうなと思います。つまり過去を知らないものは創造もできないということなんだろうと思います。
 結局、先ほど来申し上げたように感情というのは不確実性に対する適応であるというのが脳科学のひとつの知見で、極めて重要な結論のひとつが感情には大きな個人差があるということです。確実な正解がある場合の適応は、恐らくひとつに収束するので個人差は少なくなるが、不確実な状況に対するストラテジーというのは、いろんな解があってどれが正解かは後になってみないとわからない。そこで感情のシステムは個々人が違ったストラテジーをとることを許容してきた。進化の過程でいろんな人がそれぞれにストラテジーをとってきた。あるストラテジーをとった人はそれで死んだかもしれないけれど、別の人が生き延びれば種としてはいいわけです。ですから感情に個人差が大きいということが、不確実性への適応という視点から理論化されるんです。
 感情が不確実性への適応であるということの延長線上に実は創造性があるというのが、いま脳科学で考えられていることでして、つまり先ほどのフィーリング・オブ・ノーイングもそうですが、脳のシステムは記憶も含めて不確実性を乗り越えるために発達してきて、その副産物として創造性があるという考えです。例えば、新しい状況に臨機応変に適応していく状況には、感情、不確実性、記憶、創造性の結びつきがあるだろうと思うわけです。これはキャラクター創造力ということではなく、一般的なことに関係する議論なんです。次に身体性の話に移る前に、感情の部分でご質問がありましたらどうぞ。
鎌田―不確実性に対応する適応のことで、『となりのトトロ』を引用してみます。メイという名前の4歳の女の子が最初にトトロに出会って、その次にお姉さんのサツキと二人でバスを待っている時にトトロがやってきてまた出会う。2人が見たトトロの印象を「怖い、すてき、怖い、すてき」っていうふうな感情を込めて、お父さんにぶつけるわけです。リスキーな状況にあえて飛び込んでいくファーストペンギンにも通じることですが、不確実性に対する適応については、何か遺伝子的に向いている、向いていないがあるような気がします。新規探索傾向があって、怖い、新しいことに興味があってドーパミンがパーッと出るような状況でね。子どもは「怖い、すてき、怖い、すてき」っていう非常にアンビバレントな感情を持っていて、怖いものは怖いもの、すてきなものはすてきというふうに二分解されていないわけですよね。子どもは2つに世界をはっきりと分けていないから、どこがリスキーだという認知もはっきりしていない。トータルに言えば全体がリスキーで、全体が神話的であるというような、混じり合った世界像があると思います。そういう特性を探していけば興味深い何かキャラクターがあるような気がします。
茂木―アメリカ人は一般的にリスクをとるのが好きですね。だから行動経済学みたいな研究も進んでいる。日本人は一般的にリスクをとるのが嫌いです。ある企業に行って600人ぐらいの人に「皆さん今直面している不確実性を楽しんでいますか、それとも不安に感じますか」っていうと9割が不安に感じるって言ったんですね。これがアメリカだと逆になると思うんです。不確実性を楽しめるかどうかっていうのは、かなり組織の根幹に関わることで、日本人全体が宿命としてそうだったら、これはちょっとヤバイ感じがします。
船曳―全てが前にあった知識から思い出されているということよりも、不確実性の中で個性がどう発揮されるに注目したいですね。あまりにも通説っぽいですが、例えば信長は非常にリスクをとって、それで楽しんでいて、最後はリスクでやられてしまう。彼としては楽しい人生だった。秀吉は最初のリスクをとるまでが、ものすごく大変で、晩年まで、ものすごくリスクを恐れた。家康は全くリスクはとらないという人生で最後まで通した。それぞれは成功したけど成功の仕方としてはあの短い2〜30年の間にあの3人が収束している。その3つのやり方は世界のどこだってあると思う。歴史的文脈で見れば割とそれは考えやすいので、歴史と人種と文化とそれからある偶然のファクターみたいなものが全部そろった舞台でだれが個性を発揮するかということだと思います。
鎌田―日本の中世は保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)ころから始まり信長のころ終わる。乱世の不確実性の時代で、宗教的、芸術的にも興味を持っている。平成の年号が決まった時、これは中世のような乱世になるかも知れないと、動物的な直感で思ったら、地震、雷、異常現象や人災、暴力的異常犯罪が頻繁に起こってきている。ますます平治の状況と平成の状況は重なって感じている。日本の年号で『平』から始まるのはこの2つしかない。僕は元号を選んだやつの責任を問えと本当に思っている(笑)、中村元とかね、ああいうやつはちょっと歴史を知らないと思います。ただし乱世になるということは人間の神経細胞をとてつもなく危機に陥れると同時に活性化させるという側面を持っていて、中世に不確実性が極めて高まった時代に面白い宗教画とかいろんなアーティストが出てきている。その人たちの創造性を考えると不確実性が極まってくる時代に人間の適応能力が試されるわけだから、先ほどのファーストペンギンが次から次へと出てきて、討ち死にするやつもいるけど、生き残って芸術を極めるやつもいて、極めて魅力的な時代とも感じている。そういう意味では、中世の乱世と同様、平成はとても面白い時代になるのではないかと感じている。1996年に星野道夫という写真家がヒグマに食われて死んだ。彼は、エコロジストでクマの生態を追いかけていく内に、クマに近づけば近づくほど自分が食べられて死ぬだろうと、一種予感していた。食われて死ぬことに対して単に危険を避けるのではなく、そこまでやってもいいのか、そこまでやるのが自分の運命なのか、そういうことを考えていた。人間にはそんなところがあると思う。
清谷―それはある。15年前から南アフリカに行っているが、最初の時に初日の夜に強盗3人組に捕まって首を絞められた。たまたまお巡りさんが来て助かったんですけど、その後もずっと行っている。オーバーに言えば運命的な面白さを感じる。日本人が行かない、兵器輸出のワールドプレイヤーになっている、実際イラクに南アフリカ製の核関係の部分が輸出されている、そういうのがやっぱり面白くて行くん、行くとかなりのリスクがあって、夜コンコンと知らないやつにドアを叩かれるとか、携帯電話やパスポートは持つなとか、そういう世界です。


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