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フランシスカ・バロス・ダ・シルヴァ・ビコスキ
(ブラジル)
右から2人目が本人
フランシスカ・バロス・ダ・シルヴァ・ビコスキ
 ブラジル・アマゾナス州生まれ。ハンセン病の早期診断・早期治療を促進する社会福祉士として活躍し、ハンセン病にかかった女性支援ネットワークを築いた。
 
 私にはインディオの血が流れています。アマゾナス州の生まれですが、17歳のときに、雇われていた家族についてクリチバに来ました。あんまりにもたくさんの建物や光があるので、びっくりしました。最初にテレビを見た時は、どうやってあんなに小さいスペースに人をたくさん押し込んだんだろうと、不思議に思ったことを覚えています。
 しばらくして恋に落ちました。でも私の初恋は、差別と偏見に満ちた苦いものでした。ハンセン病によるものではなく、私の血筋に対する差別と偏見です。妊娠しましたが、彼の家族はインディオの血が混ざることが許せないと、結婚を許してくれなかったのです。彼の母は私に堕胎を迫り、金を渡しました。その頃、クリチバから離れて暮らしていたのですが、その金を持って、クリチバに戻ってきました。
 それから1年たちました。娘の3カ月の検診に行った時、私の病気が分かったのです。この医者は、私がハンセン病にかかっていると言いました。もう二度とデートすることも、結婚することも、子供を持つことも、勉強することもできないと言ったのです。医者はこう続けました。「インディオはジプシーみたいなもので、通ったところに跡を残す。4年もしたら、娘もおんなじ病気にかかってるだろうよ」と。
 そして障害も何もなかったのに、この病気にかかったら、身体のいろんなところが欠けていって、死ぬんだぞ、と言ったのです。私はハンセン病のことはまるで何も知らなかったので、恐怖と絶望で目の前が真っ暗になりました。ゆがんだ情報が一挙に投げつけられ、私の頭に思い浮かんだのは、ただただ、死にたいという思いだけ。もしも死ぬなら、五体満足なまま死にたいと思いました。娘を腕に、医者の部屋から飛び出し、道路を走っていた車の前に身を投げ出しました。車を運転していた女性は、すんでのところで車を止め、さまざまなことがあった末に、私の病気が治るまで、娘を自分自身の娘として育ててくれることになったのです。
 1976年10月にハンセン病の治療を受けるために、パラナ衛生皮膚病院に入院しました。ここで2年間を過ごしました。入院した当初は、病気のことを知らず、病気であることを否定したいという思いから、治療を受けることを拒みました。私自身の心の中の偏見が、私自身が治る道を閉ざしていたのです。しかし娘が健康に成長した姿を見るためには、治療を受けなければならないと説得されて、ようやく治療を受けることにしたのです。
 この献身的な病院のスタッフが、私にとってはどんなに大きな支えになったことか。働いている人の多くはハンセン病を体験した人でした。退院して、結婚しました。夫はハンセン病にかかったことがない人です。そして次女が誕生しました。クリスチャニという美しく元気な、緑の目をした女の子です。私が生きる希望を与えてくれる娘です。いろいろと考えた末、長女はこれまで育てそくれた家族と一緒に暮らすほうが幸せだろうという結論を出しました。もちろん連絡は取り合っています。今では長女は理学療法士をしています。
 私は常に社会の偏見と闘ってきました。家族や社会から隔離されたこと、3カ月22日だった娘を他人に預けなければならなかったこと、病気のために仕事を辞めなくてはならなかったこと、医師になりたかったのに、勉強を続ける事ができなかったこと、私と交友のあった友達が、みんなハンセン病の検査を受けなくてはならなかったこと、家というものを持つことができない日々が続いたこと。ハンセン病にかかったために、心に多くの傷を負いました。中でも私の心に残っているのは、ミサに行ったときのことです。「我らが父」という言葉で起立し、隣の人と手をつなぐのですが、私の隣にいた人は、私の手を取った瞬間に、ぱっと手を離しました。私の手には障害があったので、病気に気がついたのでしょう。その人の、明らかな恐怖と拒絶が身にしみました。悲しみに打ちひしがれそうになった時、3歳になった娘クリスチャニが私に言いました。「ママ、忘れないで。身体に傷があったとしても、ママの心はとってもきれいなのよ!」
 ハンセン病にかかった私たちの社会での地位と権利のために、ハンセン病の正しい知識のために、闘い続けます。いつも言っていることですが、大切なのは、薬だけではないんです。共に歩む人がいること、そして病気にかかっても、誇りある社会の一員であることを忘れず、忘れさせないということが大切なのです。私たちは誰もが治ることを望み、治ることを信じなければなりません。私は、「菌」であることをやめました。そう。私はらい菌やらい菌感染者ではなく、一人の人間なのです。話すことも投票することもできる一人の人間なのです。自分が自分であるために闘い続けてきました。その結果、いま、私は胸を張って言えます。私の名前はフランシスカ。自分自身と、その他多くの人の権利のために闘う市民なんだ、と。
 
おわりに
 インド南部で回復者の支援活動を精力的に続けるP.K.ゴパール博士は、「医学的に治ったとしても、回復者の多くは病気にかかる前の生活には戻れません。尊厳ある生活を送ることができるための社会的・経済的な地位が再び確立されてこそ、ようやく本当にこの病気が治ったといえるのです」と言っています。ハンセン病にかかったため、またはかかった家族がいるため、厳しい偏見や差別の対象になっている人は、今でも少なくありません。しかし、近年になり、少しずつ状況が変わってきました。回復者が救済や治療の対象でしかなかった時代から、回復者が主体となり、自らの治療や自らの生活向上を目指して、医療関係者、政府関係者、NGO等とパートナーとして取り組む時代へと、急速に変わってきているのです。
 しかしハンセン病が生きていく上で障害とならない社会を築くためには、回復者やその家族、従来のパートナーだけの力では充分ではありません。社会の一人一人が、自分たちが関わる社会の問題として受け止め、意識を変え、ハンセン病を体験した人を受け入れ共に生きる社会の建設へ向けた努力が必要なのです。
 ハンセン病にかかった多くの人たちは、厳しい差別を受けながらも、それに屈せず、闘い、尊厳を勝ち取ってきました。ハンセン病の歴史は苛酷なものであると同時に、人間の無限の可能性を示す歴史でもありました。いま、ハンセン病の長い偏見と差別の歴史を乗り越えるときを迎えています。偏見と差別を乗り越えるハンセン病の歴史は、また、他の病気、障害や社会問題に取り組む上で、大きな可能性を秘めています。
 医学的にも社会的にもハンセン病問題が解決したと言える日が来るまで、私たち一人一人が、共に生きる社会を築くべく、努力を続けなくてはなりません。
 
以前、社会に私たちの居場所はありませんでした。
でも最近は共生という方向に変わってきたようです。
社会復帰や共生は、他の人を受け入れる心から始まります。
私たちは他の人を受け入れる心を学びました。
そしていま、他の人たちが私たちを受け入れる心を学んでいるのを感じています。
フンベルト・ウィレムス(スリナム)
 
ハワイでは、ハンセン病を体験した私たちは、
私たちと社会を阻んでいた古くからの壁を乗り越え
啓発活動では中心的な役割を果たすようになりました。
私たちの辛い経験が活かされる時が来ました。
ハンセン病回復者だけではなく、高齢者や障害者など、
特別なニーズのある人たちが生きていくためには、隔離収容ではなく、
もっと人道的なやり方があることを伝えられるのですから。
バーナード・プニカイア(アメリカ)
 
うなだれるのはやめ、
胸を張っていこうではないか。
我々の目標達成への決意は固い。
恥も罪の意識も忘れよう。
拒絶されることを恐れてはならない。
今こそ、我々の人権を勝ち取ろう。
もはや我々の人権を踏みにじらせまい。
さあ、誇りと尊厳を胸に
進んでいこうではないか。
フランシスコ・A・V・ヌーネス(ブラジル)
 
関連Webサイト
日本財団
 
笹川記念保健協力財団
 
ILEP
(ハンセン病支援NGOによる世界救らい団体連合)
 
世界ハンセン病歴史プロジェクト
 
IDEA
(ハンセン病患者・回復者を中心とした国際的ネットワーク)
 
MORHAN
(ブラジルの回復者の社会復帰をめざす団体)
 
HANDA
(中国南部を中心とする回復者の社会復帰をめざす団体)
 
JIA
(中国定着村でワークキャンプを行う学生ネットワーク)


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