新レース場建設地の決定
移転予定地の第一候補に挙がっていた舞阪町弁天島の旧塩田跡について、その後土地の買収金額で難点が出てきて舞阪町側から塩田跡を移転予定地とする件は白紙にもどしてもらいたいとの申出があり、第二候補地を早急に決定する事にしたが、雄踏町には適当な場所もなく、新居町から話のある新居町中之郷東海養魚場東側について細部検討することになった。
昭和三十九年十二月十五日、浜名湖競艇組合議会において、新レース場建設地は、新居町中之郷東海養魚場東側に満場一致で決定し、いよいよ本格的作業に入ることとなった。
公有水面の埋立工事、二つの永久橋工事、国鉄新居町駅競艇場専用乗降口駅の新築、国道一号線よりのオーバーブリッジの建設等と競艇場の本体工事以外に数多い難工事があり、その間、養蠣(かき)業者、海苔業者よりの汚水等の被害による損害補償の要求など紆余曲折の結果、景勝地浜名湖の東海道線に接した絶好の位置に、次の様な規模の新レース場が建設されたのである。
一、スタンド総面積 一六、三一八平方米
二、スタンドの長さ 三〇五米
三、収容人員 二五、〇〇〇名
四、駐車台数 三、五〇〇台
五、投票窓口総数 四四四口
六、特別観覧席数 四四〇席
七、一般椅子席数 三、〇〇〇席
八、食堂 一四戸 売店 二戸
九、場内児童遊園地
スベリ台、砂場、ブランコ、ベンチ
ジャングルジム、芝植築山等
十、競走水面
面積、プール式 一〇八、九五二平方米
長さ 六〇〇米
幅 一八〇米
水深 二米
日付板 電光式
この間、昭和三十九年八月より新居町に隣接の、湖西町(旧鷲津町)が町村合併による広域化にともない、事業量が増大し町財政も悪化の過程から、競艇事業の施行権を獲得し、毎月二日間浜名湖競艇場においてレースを施行するという明かるいニュースや、全国競艇場にも例の無い(世界の犯罪史上初めて)アクアラング事件の様な、びっくりする様な知能的犯罪が昭和四十一年八月に起こった。
当時、マスコミの好材料に取り上げられ、各新聞、週刊誌に有難くない話題を提供したが、参考に当時のサンケイ新聞の記事を転用すると、
『前代未聞の大穴演出!!
金原を主犯とする四人グループをモーターボート競走法違反の疑いで逮捕。四人のうち三人は八月二十一日の最終レース出走直前、釣り舟を装った小舟でピットに近づき、アクアラングをまとった金原が水中にもぐって、ペンチで競走艇のうち四艇のスクリューを曲げた。このため有力視されていた四艇は着外に落ち、八千百五十円の大穴配当となった。残った一人は一、二着になった3-6、の裏表舟券九十枚(九千円)ずつ買っていたため、四人は合計七十三万三千五百円をもうけた。・・・
アクアラング事件はその日の取材だけで片づかなかった。捜査陣が口を閉ざして語らない、やはりヒントの点が気になった。「だれか競艇関係者にヒントを与えたものがいるのではないか」「前に同じことを試みたものがあるか」こんな質問が記者連から出た。ところが、とんだ間抜けの主役がいたことがわかったのはそれから間もなくだった。野寄信義(二九)が昨年この計画を考え、アクアラングを仕入れて、三人の仲間で実行したが失敗。ことしになってモグリ役に金原を加え、七月にやったが失敗に終ったというものだった。野寄はこの失敗で百万円以上の金をスッてしまった。・・・“事実は小説より奇なり”というが、この事件などは小説を地でいったようなものだ。』と書かれていた。
この裏面には、競艇場従業員、特に整備関係者は、再三警察関係の事情聴取等、事件が解決するまでは、針のむしろに座ったような心地であったろう。
又、昭和四十二年十一月には、建設中の新レース場第二期埋立て工事による泥水で養殖かきが死滅したという理由で、被害補償三千万円を要求していた養殖かき組合(組合長源馬亀雄氏)は二十五日朝、小型漁船三十四隻を動員、旧競艇場レースコース水面に集結し「誠意ある回答を」と競艇企業団(昭和四十二年一月一日より公営企業法による企業団と呼称)に迫った。一時はレースの開催が危ぶまれたが、双方代表者の話合いでひとまず漁船は退去し、最悪事態は免れた。
同日舞阪町役場において、企業団側より藤田企業長(雄踏町長)、渡辺舞阪町長、鈴木清新居町長、豊田雄踏町議長、那須田舞阪町議長、真野建設部長の六名が出席し、漁業組合員五十五名と話合い協議した結果、要望を検討し、再度十一月三十日に同役場で話合いを行なったが、三十日の話合いには、さきに同様の被害で四千七百万円を要求している新居町の業者三十名も参加し、合同交渉が進められた。
競艇企業団、新居、舞阪両町かき業者代表、浜名漁協、静岡県水産試験場浜名湖分場の四者による、かき被害対策協議会を結成し、被害データーの集成、泥水及び漁場の調査等、かき被害の実質調査を県公害課へ依頼した。死滅被害の学究的裏付けも大学等の研究機関に頼み、被害補償交渉の公正を期すことになった。十二月末、企業団議会協議会において、新居、舞阪両町かき業者に三千七百八十万円を、かき被害補償として支払うことに決め、一時は強い対立感情にまで発展した補償問題も円満に解決した。
旧浜名湖競艇場(弁天島)閉場
昭和四十三年三月十九日
十五年間の長い間苦楽を共にした、弁天島旧レース場と別れる日が来た。サヨナラレースの第十二レースが終了し中央スタンド前において弁天島レース場の閉場式を挙行したが、君が代の演奏のうちに旧レース場最後の国旗降下が行なわれ蛍の光のメロディーが流れると、期せずしてスタンドから拍手がわいた。思えば、この十五年間、楽しいこと、苦しいことの走馬灯に関係者は感慨無量のものがあったろう。
旧レース場における十五年間の実績は、
総売上金額
三五、九五五、〇六〇、一〇〇円
開催日数 二、二〇〇日
総入場者数 六、九八七、九七五名
旧レース場における最高売上記録
昭和四十三年一月一日
売上金額 九六、五一一、五〇〇円
入場者数 一〇、七八一名
(昭二八年八月より昭四三年三月まで)
新レース場オープン
これより先、昭和四十二年十二月の企業団議会本会議において、新レース場のオープンを昭和四十三年四月第一節と決定し、諸般の準備を急ぎ、昭和四十三年三月二十二日には、モーターボート競走の営業認可を県知事より受け、いよいよ、オープンを待つばかりとなつた。
総工費十五億円をかけて完成した新浜名湖競艇場の竣工式は、昭和四十三年四月三日、藤縄東海海運局船舶部長、笹川全国モーターボート競走会連合会会長をはじめとする来賓のほか、関係者多数が参列して開かれたが、竣工式に先立ち、新競艇場への進入路にあたる、自動車専用道路の新居跨線道路橋と附帯道路(工費二六七、三〇〇、〇〇〇円)、南側の橋梁である勝どき橋(工費二五、〇〇〇、〇〇〇円)、北側よりの競艇大橋とその取合道路(工費七五、二〇〇、〇〇〇円)、新居町駅競艇専用口(跨線歩道橋)(工費七一、四五〇、〇〇〇円)の開通式を行ない、来賓の祝辞などのあと、渡辺八平企業長が中央口ゲートのテープを切って完成を祝った。
新・浜名湖競艇場―昭和43年9月―
翌四日は、待ちに待った新レース場オープンの当日、この日は雲一つない快晴に恵まれ、初夏を思わす陽気に午前十時三十分の開場記念式典には一万人近いファンがつめかけ、来賓、関係者約六百名参列のうちに、名古屋市消防音楽隊の奏でるファンファーレも高らかに、華やかな開場式典の幕が開かれた。
売上金額は一億八百三十二万四千三百円、入場人員一万四千二百七名、これは旧レース場における最高記録を大幅に上回る新記録で、一億円の大台突破はいずれ達成されると予想されてはいたが、開幕初日から実現をみるという好調なすべり出しであった。
かくて翌月に開催された第十四回全国地区対抗競走四日目(六月二日)には売上金額一億七千六百七十四万三干三百円の記録をつくり、六日間で六億三百十二万五千円を売上げ、一日平均一億円の大台に達することが出来た。
浜名湖競艇場も舞阪町弁天島乙女園に誕生してより早や十五年、振り返って先輩諸賢の苦労をしのぶ方法もないが「十年一昔」とよくいわれるように、一口に十五年というが長い年月であった。あのとき生れた子供はもう高校一年生で理屈の一つもいうようになったわけで、浜名湖競艇もこれから本当の大人の勉強に入るわけである。開催施行町である新居町、舞阪町、雄踏町、そして湖西町も「明治百年」をむかえて観光、文化、産業の三拍子そろった近代的な町へ大きく変ぼうしようとしている。
緑の運動公園、健全娯楽の競艇場、新しいレクリエーションの場として大衆に愛されるよう関係者一同大いに意欲をもやし、自粛自戒しながら使命達成に邁進、今後の飛躍を期したい。
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