東海地区
十五年を振りかえって
昭和二十六年というと、米国サンフランシスコにおいてソ連圏を除き四十九ヵ国の調印を得て、我国が終戦後七年目にしてようやく占領時代を脱し、主権回復の第一歩を踏み出した年である。
舞阪町の動き
この年の春、舞阪町の元町議会議員であった佐野有国氏が、第十国会に提出されたモーターボート競走法案が通過するという情報を入手したが、当時、舞阪町は近海漁業の不振のために町財政は貧困の過程を辿っており、他の産業に見るべきものがなく、漁業を主としていたため、町首脳陣はこの打開策に日夜腐心を重ねていた。佐野氏は、早速町に赴き、今度国会を通過するといわれるモーターボート競争法は、
「海事思想の普及、観光事業の振興に寄与、地方財政の改善等を主旨にした事業法令である。この種の事業こそ当地の如き観光地で行なう必適事業である」
と話したが、生憎、この時町長は町長選挙中で休職中であり、この事を深く思考する者は少なかった。
これを知った町長代理の渡辺八平助役(現舞阪町長)は早速、町長選立候補中の堀江清一氏にこの話を持込んだが堀江氏は「誠に結構な話であるが、現在の私の立場ではどうすることも出来ないから、議会議長である服部茂氏とよく話合って町議会にかけるよう」と言われ、渡辺氏は、服部茂氏と話合ったところ、服部茂氏は「このような事業なら当地方に最も適合したものであるから必ず成功すると思う」といわれた。
早速に町議会協議会を開催したものの、当時はこのモーターボート競走事業の内容を知る由もなく、したがって審議の方法も選べなかったが、服部氏は「事業の将来性については、簡単に説明できるものではないが、立地条件に伴った事業を行なう事が最も有利であり又、将来性が期待されるから、この際モーターボート競走場設置申請書だけは提出すべきである」と説明した。服部氏はなおも、この種の運営方法及びモーターボート事業内容については、後日よく研究する事とし、議会承認後、申請書を静岡県事業課へ提出した。
九月三日、東海海運局で行なわれた、モーターボート競走法の説明会に出席した舞阪町は、再び町長に当選した堀江町長と服部議長が中心となって競走場の設立を研究して居た処、温泉都市熱海の競艇設立問題は、設立運営資金の見通しもつき、関係各庁の許可を待つだけになったが、通常風波が高いこと、水深が極度にあることがレース運営に危険であるとの理由で、熱海競艇場は実現不可能になった。
舞阪町は追いつめられた財政の打開は、このモーターボート事業しかないとして、競走法が公布される日に大きな期待と望みをよせ、設立に懸命の努力を払い、町議会も机上論より実際に既成競走場を視察した上で、具体的に研究することが必要であるとし、びわ湖競艇場及び津競艇場の視察が決定された。
新居町の動き
偶然の一致ともいうべきか、この頃、新居町においてもモーターボート競走場の設置を計画していたが、新居町の場合は、舞阪町と違い比較的財源に恵まれてはいたものの終戦後の緊急工事が山積しており、そのほとんどが地元負担とあっては、町財政もやりくりがつかず、守田雪雄町長(現県議)を中心に、これが打開策に没頭していたが、当時これという具体案も浮かばぬまま、よりより協議を重ねていた時、津競艇場が開設後、日ならずして、この事業に成功したというニュースを知った守田町長、小池節郎副議長(現静岡県競走会会長)は「これだ!!」地勢から言っても津市に劣ることのない浜名湖岸の新居町であると、両氏の思考は一致し、このモーターボート事業の計画となったのである。
その頃の新居町は、小学校と同一校舎である新制中学校を独立させることが、町議会で承認され、その設計を日建設計工務株式会社に依頼すべく町首脳者が大阪に出向することになったので、この機会に、びわ湖、津の両競艇場を視察することに決定し、昭和二十七年七月中旬、守田町長、田中武雄議長、小池副議長、栗本益喜建設委員長の四氏は日建設計工務株式会社を訪問し、要談後、新居町でのモーターボート競走場設置計画についての話をした処、日建設計工務株式会社にて設計工事を行なった、びわ湖競艇場を参考までにと案内されたが、鉄筋コンクリート造りの近代的建造物であるのには、さすがの四氏も驚嘆のほかなく、この程度以上の建物でなければ、競走場が許可されぬとすれば、新居町の力ではとても・・・と、いささか落胆したがこれより三重県津市の津競艇場に赴き、同市の厚意でレース場各部の視察をしたところ、びわ湖競艇場とは全然違い施設の全部が木造建築であり、特に高級、豪華な設備もなく、この程度の施設でも競走場の許可が下りるならば新居町でも充分実現出来るものと、守田町長外各氏が津市長に感謝の意を表すべく市長室に赴いたところ、市長の机上には、翌七月二十二日、舞阪町議会議員が渡辺助役と共に津競艇場を視察したいとの依頼状が置かれてあるのには、いささか面くらったが、この不思議な巡り合わせには言い知れぬ感慨で四氏は帰町した。
その後、新居町は町議会の承認を得て、競艇場建設予定地を浜名養漁場跡(現国道一号線沿い、新居警察署及び河合楽器製作所新居工場位置)に決め、舞阪町は、弁天島乙女園(旧レース場)を建設位置に選定し、両町共、競艇場設置の具体化を進めていた。
たまたま新居町の小池氏が、競艇場設置申請のために、静岡県振興課に出向いたところ、舞阪町も昨年四月に競艇場設置方申請書が提出してあるが、最近改めて、競艇場設置申請の途上にあり、この様な大事業を隣接した町村が別別に申請するのは余り好ましくないから、両町よく話合いの上、共同事業として申請することが妥当であると言われた。
小池氏は帰町後、招集された町議会にこの県振興課の意向を伝えた処、万場一致の賛成を得たので(昭和二十七年七月二十九日)直ちに、舞阪町へ対し競艇事業の共同経営を申入れることになった。
これを受けた舞阪町も県振興課の勧告により、この事業の共同経営申入れをいつ新居町に申込むかが舞阪町議会の宿題になっていた矢先だけに、この妥協は、至極簡単に進み共同事業態勢は整ったのである。
浜名湖モーターボート競走会設立準備委員会の結成、競艇事業方針を全く整えた、舞阪町長堀江清一、新居町長守田雪雄は、この方針を具体化するには、組織をもった委員会が必要であるということになって、昭和二十七年八月二日、新居町関所跡広間に、両町長及び両町議会議員が会同し、委員会の結成を行ない設立のための本格的運動に入った。
このように計画は進んだが、地方財政委員会へ、施行者指定認可申請書を提出の際
「地方財政委員会の方針は、競走を施行しようとする市町村は、施設その他の資本金として、最低三千万円を見積る。かかる資本金の支出方法及び事業不振の場合、何れにしても、人口三万人以上を有する市町村でなければその処理法を合理化することが甚だ困難であるから、人口三万人以上は、競艇場設立に当っては基本的人口数である。よって貴町も、他市町村の加入を考慮しても差支えないから、人口三万人以上を確保して貰いたい。ただし、他の市町村を加入させた場合は県地方課を通じて具申して頂き、その後において、施行認可申請書を提出して頂きたい」
といわれ、人口問題で大きな難関にぶつかった。
当時の舞阪町人口は九、〇二四人、新居町は一二、七九五人で両町合わせても二一、八一九人で三万人に対する不足数は八、一八一人であった。
そこで、競艇場建設予定地を中心とした隣接町村に共同経営を申し入れることになった。
雄踏町の加入
新居町に隣接し競走場予定地にも関係ある鷲津町(現在の湖西町)は立地条件が悪く、又当時は比較的裕福町である点に難点があり、一方舞阪町に隣接している篠原村は当時、村会議員の選挙中であって、急を要する問題は不可能であり、かつ直接浜名湖に面していないとの理由もあり、残る唯一の頼みは雄踏町となった。そこで浜名湖モーターボート競走会設立準備委員会の服部茂、小池節郎両氏が雄踏町に赴いた。
雄踏町役場では、幸い町協議会の会議中であったが、両氏の訪問に、中村信作町長は議席をはずし、要談したところ、事の外、急を要することと、用件自体が余りも重大なるが故に、協議会を一時休憩し、中村初次郎議会議長、楠野薫副議長のほか渥美助役、野田収入役の四氏を招き、競艇事業の共同申入れに対する条件等を説明し協議の結果、町財政の改善と町発展のために当町も競艇事業に参加することを決定したが、条件に対する問題は、後日の町議会にて決議し改めて回答することを、服部、小池両氏に告げた。この速答には、たとえ、この共同事業に雄踏町が同意するにしても、数日間を要することを期待していただけに、感激し朗報を携えて帰町した。
両氏が帰った後、雄踏町では再び協議会が開かれ、中村信作町長は、舞阪、新居両町よりの競艇事業の共同申入れに対し、慎重に協議した結果「雄踏町の発展を期する為に、競艇事業の運営に従事することに同意しましたから承認願い度い」と述べる中村町長に対して議会は何等異議もなく賛成となった。
ところで、この雄踏町でも、浜名湖岸の村櫛まで橋梁を設置し、その中間に遊園地を造成し、其処で競輪を行なってはどうか・・・という説が一部議員のうちに持ち上がっていた矢先だけに、この申入れは快諾されたのである。その後数回の町議会の結果
「共同という事は、苦楽を共にし、総て、『和』をもって組織することによって、事業に対する情熱が生ずるものであって、自分の立場のみを主張することは、共同意識に反するものである。よって競艇事業に対する総ての利害関係は、三町平等で運営する」ということで、議会一致、可決された。
この回答を受取った、舞阪、新居両町は、直ちに町議会を開き、雄踏町の正式加入の承認と相俟って、三ヵ町による浜名湖モーターボート競走場の設立は、ここに全く整ったのである。
競走場設置場所の決定
昭和二十八年一月、全国モーターボート競走会連合会運営委員長、矢次一夫氏が、神田博、山田弥一両氏と共に浜名湖競艇予定地の視察に来るという報に接した堀江清一町長は、同氏を迎えるべく浜松駅に出向いたところ、神田、山田両氏は都合悪く、連合会の平野総務部長を帯同して到着した。
この両氏を迎えた、服部茂、小池節郎、中村初治郎の三氏は早速、新居、舞阪両町懸案の第一候補地(新居町新弁天)に案内し、使用水面及び各建築物の位置等を説明した処、矢次氏は「この土地は周囲の環境については申し分ないが競走場に不適当である」と前置きし、その理由として
「この地形からいって、レースコースはかならず東西に設置しなければならない。従って競技に関する建物は総て南向きになるが、そのうち審判所が問題である。それは審判所の上部に判定写真室を設置しなければならぬがこの場合、写真室は太陽の直射を受けて撮影が困難になる。これは競走場として最も不適当な原因である。更に当地方は季節風が強いから、現状のままのレースコースでレースを行なえば決して公正安全なレースは出来ない。又この場所でどうしてもレースを行なうとしたら、先ず南に面している岸壁を、少なくとも数百メートル西南に向きを変え西の方をずっと張り出すように埋立すれば許可になる可能性はあるが、現状のままでは許可は出来ない」ということであった。
然しこの場所は下検分まで済み、当然許可されるものと期待していた位置であったが、結局採用圏内に入らず次に新居町の候補地である浜名養魚場を視察したが、周囲の環境は前地同様で、申し分ないが、海草が実に多く、しかもこの海草を根絶させることは容易でないことが理由で採用にならず、残るは舞阪町候補地、弁天島乙女園のみとなった。
そこで車を第三候補地(旧レース場)に向け、国道で降り、国鉄東海道線の鉄橋下まで来た時、矢次氏は「この位置ならいける」と小池節郎氏に耳打ちしたという。重要地点を調査した結果によると、水深が少々浅いのと、水面が一寸狭いように感じるが、申し分ない競走場予定地であるといわれた。
視察を終了した矢次、平野の両氏に小池節郎氏は「今日行なった、レース場予定地の視察結果は、優劣付け難いによって、帰京後充分検討した上で、改めて通知するということにして頂き度い」と依頼した。
然し三ヵ町としてみれば、矢次運営委員長の来場と、視察の結果を期待していたことは想像以上であったにもかかわらず、何故小池氏はこの日の発表を後日に譲るべく、わざわざ矢次氏に頼んだのであろうか、この理由についてはある一部の関係者のみしか知らず、永い間、知られぬ事実とされていたが、当時の関係者の了解を得て記録する。
事態は昭和二十七年四月にさかのぼる。かつて競艇設立を新居、舞阪両町が各々単独で計画し、びわ湖、津の両競艇場を視察し、その後研究の結果、競艇事業は、設立運営資金問題が解決すれば町単独で施行できると思いいち早く新居町は町議会を開き町財政の改善と町発展の為に、当町内に競艇場を設置する主旨を説明すると共に町内に競艇場を設置することを条件に、町議会の承認を得たことが、矢次氏の発表を阻む原因となったが、若し敢てこれを速急に発表したとなると、おそらく新居町議会議員の一部より、競艇事業反対の声を生ずる事も避けがたいと知った小池氏の苦肉の策であった。結局、競艇場を無事に最良の地に移すためには、周囲の実情により第一候補地(新居町新弁天)には競艇場を設置することは出来ないという事を周知徹底させることが、事態を円満に解決することであると知った守田、小池両氏は、早速、堀江、服部、中村(信)、中村(初)の四幹事と共に土地及び漁業補償問題について具体的交渉を行なうことになった。
先ず服部茂氏は敷地関係を担当し、漁業権関係は堀江町長と渡辺助役のほか、当時の舞阪町漁業協同組合長堀江寅蔵氏等が中心となって、海苔、養蠣(かき)各業者代表との交渉に当った。然し実際は、第一候補地は競艇場には不適当であるといわれながら、なおこのような交渉を繰返したということは、事態を円満に解決する便法に外ならなかったとはいえ、問題が問題だけに、幹部はこれが収拾にはいささか困惑したかたちであった。
この様にして、競艇場設立にあらゆる努力を続けてきた浜名湖モーターボート競走会準備委員会は、昭和二十八年三月二十七日をもって発展的に解散し、以後は地方自治法に準拠した、浜名湖競艇組合(浜名湖競艇企業団の前身)によって運営されることとなり、昭和二十八年八月に第一回浜名湖モーターボートレースを是が非でも開催するという堅い決意のもとに、着々と準備は進められていったのである。
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