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千葉県立関宿城博物館 平成17年度企画展 「高瀬船物語」 図録

 事業名 海と船の企画展
 団体名 関東海事広報協会 注目度注目度5


エピローグ 時代の彼方へ
文明開花と蒸気機関
 明治維新をむかえ、世は文明開花の時代となった。政府は西欧化に傾倒し、追いつけ追い越せと、殖産興業をうながす政策を次々と打ち出していった。その一環に交通網の整備と交通手段の動力化、すなわち蒸気機関の導入があげられる。より早くより安全に、そしてより正確に、物資の輸送が求められる時代となったのである。
 明治五年(一八七二)の鉄道開業は、日本における近代化の象徴的なできごとであった。この年、新橋−横浜間で営業を目的とした鉄道が、本格的に稼働を開始したのである。当時、陸蒸気(おかじょうき)とよばれた蒸気機関車は、衆目を魅了していった。
 明治三〇年代ともなると、鉄道網は各地に拡大され、利根川水運にも大きな影響をあたえはじめる。たとえば、江戸川筋では、やや遅れて明治四四年(一九一一)千葉県営軽便鉄道として野田−柏間の鉄道が開通した。それまで高瀬船に積まれていた醤油樽の多くは、貨車に積まれることになったのである。のち、この鉄道はいく度かの移譲・合併、路線の延長を経て、昭和五年(一九三〇)には大宮−船橋間六二・九キロを全線とする鉄道網となってゆく。昭和一九年(一九四四)三月、当時、総武鉄道株式会社としてあったこの路線は、東武鉄道に合併され、今日にいたっている。
 
動力化する川船
 陸蒸気に象徴される先端技術が、河川交通にも応用され、舟運は一時、頂点を極めることとなる。明治四年(一八七一)利根川水系にはじめて蒸気船「利根川丸」が登場、そして、明治一〇年(一八七七)には、外輪蒸気船「通運丸」第一号が就航することになった。これは、両脇に外輪を持つ船体構造で、高瀬船とはことなり、多少の風雨に影響されることもなく、しかも桁違いのスピードを持っていた。
 通運丸は当初、東京深川扇橋から江戸川を遡上、思川の生井河岸(小山市)までの就航であったが、その後、利根川筋の銚子、霞ヶ浦の土浦、北浦の鉾田、あるいは東京湾沿岸など、次第に航路を拡大していった。他方、明治一四年(一八八一)には銚子汽船会社が設立され、翌年より銚子−木下間に「銚子丸」を就航させた。そして、この蒸気船運用の成功により、各地には回漕問屋を母体とする汽船会社が次々と設立され、同業者間の競争が熾烈を極めていったのである。もっとも、蒸気船が加わったことにより、旧来からの高瀬船がすぐに消滅したかというと、そうでもなかった。運賃の安さもあって急ぎの貨物以外の需要はまだまだあったからである。
 しかし、大正末から昭和初年頃になって、焼き玉エンジン付きの機械船が普及してくると、蒸気船は一気に衰退、白帆を立てない高瀬船も多々みられるようになる。高瀬船による搬送は、機械船による曳航か、あるいは自らエンジンを搭載して改造船化するといった方向に変わってきたのである。そして、大正一二年(一九二三)おりしも起きた関東大震災によって、船を損じた者、損じなくとも景気悪化による経営難から、船を手放す者も少なくなかった。
 
利根運河の開通
 利根川と江戸川との間を航行する船は、両河川が分岐する関宿は必ず経由しなければならず、また、関宿辺から鬼怒川合流地点までの利根川には浅瀬が多かったため、渇水期は通航が困難という問題点が従前よりあった。利根川側にある三ツ堀・瀬戸(野田市)と江戸川に面する深井新田(流山市)との間には、近世後期ともなると、すでに輸送経路が確立されていたとみられ、関宿まで廻らず、いったん荷を下ろして陸路で運び、再び船に上げて搬送するといった方法をとることも少なくなかったようである。
 これらの問題を解消するにあたり、明治政府は当初、この間に鉄道を敷設するか、運河を開削するかの選択にゆれた。そして結果的に、既存の舟運を活かした利根運河計画を採用、これによってそれまでの航行距離を三八キロ短縮することが可能となったのである。
 明治二三年(一八九〇)に開通した利根運河は、昭和一六年(一九四一)の洪水による決壊時まで、数多くの和船・汽船を通航させた(図表8)。この間、もっとも通船が多かったのは明治二四年(一八九一)で、年間三七、六〇〇余艘、一日平均一〇三艘ほどだった。逆にもっとも少なかったのは昭和一二年(一九三七)で、六、五〇〇余艘、一日平均一八艘だったとされている。いずれにせよ、利根運河の閉鎖は、再び難渋して関宿を回るか、業を離れるかの二者択一の問題ともなって、舟運関係者は大打撃を被った。
 
利根川図志、その後
 「・・・利根の風景も一變した。堤防は無闇に高くなり、幾つかの鐵橋が架って汽車が走り、其代りには縦(ほしいまま)の水運が衰へてしまって、松の林を行く白帆の影も消え、あれだけ多くの高瀬船が、來ては風待ちをして居た處々の川湊は、何れも川と縁を切ってしまって、水に燈の火の映るといふ家も、坐って川の見えるといふ二階も無くなった。」
 これは、岩波文庫本『利根川図志』の「解題」にある一文である。筆者は柳田国男で、昭和一三年(一九三八)六四歳のときであった。『図志』が世に出た三〇年ほどのちのこと、明治二〇年初頭、少年期を利根川流域の布川で過ごした柳田は、当時と今とを回顧して、こう記したのであった。舟運が衰退したのは、“汽車”によるためだけではなく、近代の河川改修事業により、川道を合理的に付け替えたり、周辺堤防を高く築くなどしたことと無縁ではなかった。特に、合理的な河川改修を押し進める契機となったことに、明治四三年(一九一〇)の大洪水があげられる。間もなく川は直線化し、それによって流水速度を高め、船は風力や人力では操りにくくなり、やむなく動力化を必要とするようになった。連動して、川底の堆積も著しくなる。そして、新たな高堤は岸辺の家々を移転させ、川面の河岸場は徐々に姿を消していった。まさに「坐って川の見えるといふ二階も無くなった」のである。
 
トラック輸送の時代へ
 明治後期には鉄道も各地に普及しはじめたが、そのなかで大正一二年(一九二三)の関東大震災は、鉄道・舟運ともに対し、大きな害損をあたえた。そして、これよって輸送機関が麻痺状態と化したとき、小回りの利くトラック輸送の利便性は、再認識される契機ともなったのである。
 トラックによる輸送は迅速性と経済性がよく、対して、舟運は増水や渇水その他天候によって航行を阻害されることが多く、鉄道は路線の敷設に限界があったので、次第にトラックの利用が高くなっていった。昭和になると、道路網が整備され、戦後は道路事情もよくなって、トラック輸送は他の運送手段を凌駕するようになる。
 かくして、戦後の高瀬船では後部にエンジンを載せたものもみられたが、もともと木造船という脆弱な構造上、無理も利かず、また、修理・造船をする和船大工も激減し、老朽化する一方となって、昭和三〇年代を最後に姿を消していったのである。利根川高瀬船は、すでに時代の彼方にある。
 
図表8 利根運河の和船・汽船通航量
(註)川名晴雄『利根運河誌』「年度別通船筏内訳表」(八三〜八五頁)より作表。当時としては依然として和船が卓越していたが、時代とともに汽船の利用度が高まっていく様子がよくわかる。ただし、和船数中には機械船に曳航されたものも含まれている。


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