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千葉県立関宿城博物館 平成17年度企画展 「高瀬船物語」 図録

 事業名 海と船の企画展
 団体名 関東海事広報協会 注目度注目度5


高瀬船と船頭たち
船とともに
 船頭の経営形態としては、個人経営の場合と団体経営の場合とがあった。前者は、問屋や回漕店を通じて搬送を請け負うというもので、その大半は家族経営によっていた。後者は、大規模な経営者の管理下にあるというもので、いわば会社付きの運転手にあたり、船も自前のものではなかった。時代が下るにつれ、個人経営化していったとみられる。
 船を操る者の一人前の目安に「棹先三年、櫓は三月」ということがよくある。しかし、高瀬船に乗る船頭は、実際には利根川の往復回数が経験値となり、特に修行期間を設けたり、ある種の親方に付くというようなことはなかった。いきなり実地経験を積んでゆき、船の操作方法や危険箇所を覚える一方で、荷の受け方や降ろし方、商売上の業者と顔見知りになるなどしていった。技能を要する業種ではあったが、職人のそれのような形態はとらず、親などのあとに付き、自然に覚えていったのである。
 船の乗り手としては、父とその息子、その他には雇い人などもいて、かつては四、五人、多くても五、六人程度で、船に寝泊まりしながら航行した。それが昭和の頃からは、親子や夫婦ものなど、二名程度で仕切るようになっていった。高瀬船を操るには、舵取りと棹取り、帆の上げ下げなど、最低でも二人は必要だったとされている。もっとも、船頭は、この稼業のみで暮らしていたわけではなかった。いわば半農半職で、多くはなくとも田畑は持っていて、その管理は主として家に残る妻や祖母など、女たちが任されていた。船頭は、一般農家より経済的に「よかった」とはよく聞かれるところである。
 
船上の日々
 帆を張り、櫓を漕(こ)ぎ、棹を突っ張っていた頃は、たとえば銚子から東京(江戸)まで順調にいって片道一週間から一〇日は要したという。しかし、夏場と冬場は渇水期にあたり、川の水位も下がったことから、同じ片道でも一か月近くもかかった。利根川も酷いときになると水位が二〇センチに満たないほどだった。そして、川を遡上するときは帆走が基本で、風がなければ風待ちといって風の起こるのを待つか、櫓や棹を駆使するしかなかった。一方、川を下るときは流れに載って棹で航行できたのである。また、水量のないときは、水待ちといって雨が降るのを待った。あるいはまた、艀船(はしけぶね)を依頼し、これに荷を分配して船体を軽くし、船団のようにして途中まで行くこともあった。浅瀬に乗り上げたときは、舟子が陸に上がったり、沿岸の人足を頼んで、曳き舟といって、船を綱で曳くこともした。どうしようもなければ、川に入って押し上げることもあったという。ともあれ、かつては運航の所要時間を遵守する風はなく、今のように厳密ではなかったのである。
 停泊するに際しては、それぞれの船頭でお決まりの場所というのがあった。佐原などは別であったが、多くは船溜まりなどはなく、直接岸に横付けするのが常だった。銚子から向かうとすると、小見川・佐原・潮来、木下・布佐・布川、取手、境・関宿、野田・流山、松戸・市川、そして東京といったところを点々と泊まる場所にあてた。こうした河岸には店なども多く、物を買うにしても便利だったからである。もっとも、宿泊といってもごろ寝同然で、セイジで過ごしたのであって、船外で泊まったわけではない。船頭には積み荷を守る義務があった。その他、艫部分も板を上げれば仮眠するスペースも作ることができたという。このため、男たちがいったん船で働きに出れば、半月ないし一、二か月近くは確実に家を空けることとなり、ほとんど親の顔を見ずに幼少期を過ごしたという者も少なくなかったのである。
 
誉田嘉之助、江戸へゆく
 近世後期に、誉田嘉之助という船頭がいた。嘉之助は水戸藩召し抱えの御船船頭で、江戸の水戸藩蔵屋敷との間を行き来していた。嘉永六年(一八五三)のこと、嘉之助は北浦北岸の串挽(鉾田町)と江戸の墨田川岸にあった水戸藩小梅邸(墨田区)とを四往復したことがあるが、その際に「川條風雨泊り日記」という航行日誌を書き残している。ここには、航程やそれに要した日数のみならず、具体的な航法も書かれてあって、当時の状況を知るうえで興味深い。
 串挽を出航した船は、北浦から利根川に入ると関宿まで遡上、そして関宿関所を通関して江戸川へと出て一路南下し、行徳河岸前を過ぎると新川(船堀川)・小名木川の運河を抜け、ようやく墨田川岸の水戸藩小梅邸(墨田区)へと到着した。途中、小名木川入り口には幕府の中川船番所(江東区)があった。そして、帰路も同様の航程をとっている。もちろん、高瀬船は風力や人力で航行するので、日々順調に航行できたわけではない。川帆から帰帆までの日数をみると、一回目は往路一三日・江戸滞在六日・復路一一日の計三〇日間、二回目は往路九日・江戸滞在九日・復路一四日の計三二間、三回目は往路七日・江戸滞在七日・復路八日の計二二日間、四回目は住路二四日・江戸滞在一五日・復路一四日の計五三日間となっており、最短二二日間で往復した場合と、最長五三日かかったこともあって一様ではない。このうち、第二回目の航程(四月五日〜五月六日)を示したのが図表7である。
 この日記からは、風待ちや雨天時での滞船、夜間航行は行わないなど、その実態もよくうかがえる。特に、帆走は制御が難しく、江戸川のように川幅の狭いところでは、衝突事故も起こりやすかったようである。江戸川下りは一日で十分だったが、上りのときは風具合、天候によって三〜八日もかかっている。江戸川は、利根川上流や渡良瀬川から、それに鬼怒川・小貝川や利根川下流から、江戸に向かう川船が集中したので、川筋は混雑をきわめていた。
 
図表7 高瀬船の航行航程
−船頭・誉田嘉之助の航行日誌から−
(拡大画面:255KB)
 
あんば大杉大明神
 こうした船頭たちにとって信仰の要となっていたのは、茨城県稲敷市にある大杉神社であった。大杉神社は、通称、大杉様、あんば様と呼ばれ、今日でも船の航行を司る神として広く信奉されている。かつて船頭たちは、よく仲間連中で講を組織するなどして、毎年定期的に参拝しに行ったものである。そして、高瀬船のセイジ内部には、たいてい神棚が設けられており、そこに祀る神もやはり大杉様であることが多かった。
 あんば大杉信仰は、江戸中期から後期にかけて盛んになり、特に享保一〇年代(一七二五〜三五)には江戸市中をはじめとして、下総・常陸・上総・安房にまで急速に伝わった。享和三年(一八〇三)写の『大杉大明神縁起録』によれば、神護景雲元年(七六七)日光を開山した勝道上人が、霞ヶ浦で暴風にあって難船しそうになった際、「三輪の神」と名乗る大杉に降りとまった神に救われたので、その場所に「安波大杉大明神」の小祠を祀ったことが、そもそもの神社のはじまりと伝えている。そして、文治年間(一一八五〜一一九〇)には、大杉神社の別当寺であった安穏寺の社僧常陸坊海尊が、その霊験によって暴風雨から難船を救ったり、疱瘡の流行を防いだとされ、次々と信仰を篤くしていったとされている。


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