III. 神戸を描く
1868年1月1日、兵庫(神戸)は開港した。港町として繁栄した兵庫の東に、J.W.ハートが設計した外国人居留地が造られ、西洋館が建てられていく。港が整備され、鉄道が開通し、神戸は西洋文化流入の窓口として存在感を強めていった。明治初期の開化錦絵は、何よりも新しい建築物と外国人が持ち込んだ風習・風俗が、当時の人々を強く惹きつけたことを伝えている。イギリス人貿易商・バーナードは、居留地の境界地点を水彩画に描き、西洋風の新市街と伝統的な日本の風景との対比を強調した。
大正〜昭和初期、多くの洋画家たちが、旧居留地(明治32年に日本へ返還)と周辺の異国情緒が感じられる街並みを題材に、神戸の風景を描いた。背後に六甲山がそびえ、関東大震災後、貿易量日本一を誇った神戸港には船舶があふれ、海外へ渡航する画家も、戻ってきた画家もしばし滞在した神戸。描く場所によっては、日本に居ながら滞欧作の雰囲気を持つ風景画を制作できたことを考えると、当時の神戸は、絵になる(油絵で描いて様になる)風景を求めた画家の夢を叶える街であったと言えるかもしれない。しかし、神戸は第二次大戦の空襲で市街を焼かれ、異人館は敗戦後の開発ラッシュによって取り壊されていき、残っていた近代建築と異人館も、阪神・淡路大震災で多くが倒壊し消えていった。
現在、神戸の魅力とは?と考えると、海、山、エキゾティックな街並み、という馴染み深いコンセプトが、実は50〜60年前まで健在だった街並み遺産を前提にしているにすぎないことを痛感する。20世紀後半、都市は拡張され、復興・整備が繰り返されたが、山の中腹までビルが建ち、海岸は埋め立てや高速道路建設によって遠ざかった。画家たちが神戸を描いた作品は、近代以降の神戸のイメージが、景勝美が愛でられた場所よりも、明治初期から70数年かけて蓄積された西洋建築群に、大きく依存して形成されてきたことを如実に物語っている。また、現代の私たちが、それらの多くが消えてしまったにもかかわらず、良き時代の神戸イメージを追い求めがちである現実も突きつけている。
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摂津神戸海岸繁栄図※
長谷川小信(二代貞信)
1871〜74(明治4〜7)年頃
The scene of prosperous port, Kobe
Hasegawa Konobu (Sadanobu II)
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81
摂州神戸西洋館賑之図※
長谷川小信(二代貞信)
1871〜74(明治4〜7)年頃
The scene of western style buildings in Kobe
Hasegawa Konobu (Sadanobu II)
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82
摂州神戸西洋人馬駆之図※
長谷川小信(二代貞信)
1872〜74(明治5〜7)年頃
Westemers enjoying horse racing in Kobe
Hasegawa Konobu (Sadanobu II)
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83
摂州神戸海岸繁栄之図※
長谷川小信(二代貞信)
1871(明治4)年
The scene of prosperous port, Kobe
Hasegawa Konobu (Sadanobu II)
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