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4章 刑法改正にともなう想定シナリオの実際
 TAJIMA号事件において、便宜置籍船上で日本人が殺害された場合でもわが国が刑事裁判管轄権を持てなかった問題点を踏まえ、事件から1年3ヶ月後の平成15年7月、法務省は刑法を改正し3条の2を付け加え消極的属人主義を復活させた。これにより、今後日本人が関わる同様の事件が発生した場合、理論的にはわが国に刑事裁判管轄権が発生することとなる。しかし、便宜置籍船上の犯罪では複数国の管轄権の競合が発生するため、実際の事件処理は国内犯罪の処理と比較すると複雑になることが予想される。
 そこで、便宜置籍船上における、日本人が関係する殺人・傷害事件を例として、わが国が執行管轄権を行使するとの前提のもと、実際の事件処理を具体的に理解するため、事件の種類、事件後最初に入港する国の想定される組み合わせにおいて、それぞれどのような処理がなされるか以下にシミュレーションすることとする。なお、すべてのケースで被疑者はM国人、便宜置籍船の船籍国はL国、犯罪の発生日は3月10日とし、犯罪発生水域は一般的なケースを想定するため公海上とする。
 本章でシミュレーションするケースは以下の6ケースとする。
 
事件の種類:殺人、最初の入港国:日本
事件の種類:殺人、最初の入港国:K国
事件の種類:傷害、最初の入港国:日本
事件の種類:傷害、最初の入港国:K国
被疑者が日本人、被害者が外国人
被害者・被疑者とも日本人
 
 以上の6ケースを以下に記す。
 
4.1 事件の種類:殺人、最初の入港国:日本
【3月10日】
 ペルシャ湾を出航し横浜港へ向かうVLCC P号(300,000DWT、乗組員19名(日本人5名、M国人13名))船上において、同船のM国人甲板員甲は、船内備品の無断使用を日本人二等航海士乙に見つかり叱責を受け、甲はこれに逆上、所持していた刃物にてBを刺殺した。甲は証拠隠滅のため死体を海に投棄しようと、死体を甲板上へ運ぼうとしたが、途中M国人機関員丙に見つかり、丙は直ちに事態を船長に報告した。
 船長は直ちに全職員に事態を連絡、信頼できるM国人部員数名にも連絡し一同を参集、被疑者である甲の拘束に向かった。甲は事態が知れ渡ったことを知り、抵抗を断念、船長は一同に甲の拘束及び監禁部屋の設置を指示した。また、乙の死体は投棄される前だったので、船長は死体の状態の写真撮影及び冷凍庫への保管の準備を指示し、凶器となった甲の刃物を自ら保管した。その後、船長は機関長、一等航海士、一等機関士同席のもと甲から犯行の状況、犯行の動機等について事情聴取を行い、記録を残し、甲の監禁部屋への監禁を指示した。
 さらに船長は、発生事態、実施した措置、被疑者の状態等について船舶管理会社に船舶電話にて連絡した。連絡を受けた船舶管理会社は、直ちに海上保安庁と事件への対処について協議した。
 犯行は公海上で行われたため、一義的には刑事裁判管轄権は旗国であるL国にあるが、被害者が日本人であるため、刑法3条の2に基づき日本にも刑事裁判管轄権が発生する。また、被疑者の国籍国であるM国の刑法では、積極的属人主義を採用していないため、同国には刑事裁判管轄権は発生しない。
 ここでL国と日本で刑事裁判管轄権の競合が発生するが、海上保安庁は刑法3条の2に基づき被疑者を逮捕する方向で船舶管理会社と調整するとともに、法務省に事態を連絡し、外交関係を考慮して外務省を通じ被疑者の国籍国であるM国、便宜置籍国であるL国との調整を行うこととした。
 
【3月11日】
 外務省は在京M国、L国大使より、日本によるP号への執行管轄権行使を承諾するとの書簡を入手、同省はその旨海上保安庁に直ちに連絡した。これを受け、海上保安庁は被疑者逮捕のため裁判所へ逮捕状を請求、逮捕状は同日中に発付された。さらに海上保安庁は本船、船舶管理会社とも協議し、P号を予定通り横浜港に入港させ、そこで被疑者を逮捕することとした。
 
【3月12日】
 P号は横浜港に入港、桟橋にて待機中の捜査員等はP号に乗船、船長より死体、証拠品、事情聴取記録の引き渡しを受けるとともに、被疑者を逮捕し、船内での現場検証、被疑者取り調べを開始した。被疑者の身柄は、海上保安庁の留置施設にて留置することとした。
 
【3月13日】
 捜査員は検察庁に被疑者を送検し、検察庁は被疑者を勾留する十分な理由があると判断、裁判所へ勾留請求を行った。それを受け裁判所は被疑者に勾留質問を行い、審査の上拘留状が発付された。勾留状は同日より執行された。
 
【3月18日】
 海上保安庁、検察庁による現場検証及び取り調べが終了。検察庁は公訴提起の準備に入った。P号は補充要員を乗船させた上、次の目的地へ出港した。
 
<船長の対応>
・被疑者甲の拘束、監禁
・死体の状態の写真撮影、冷凍庫への保管の準備
・証拠品の保管
・船舶管理会社への連絡
・被疑者甲からの事情聴取
・海上保安庁への被疑者甲、死体、証拠品、事情聴取記録の引き渡し
 
4.2 事件の種類:殺人、最初の入港国:K国
【3月10日】
 大阪港を出航しK国のR港へ向かうばら積み船 S号(188,000MT、乗組員17名(日本人5名、M国人12名))船上において、同船のM国人甲板員甲は、船内備品の無断使用を日本人二等航海士乙に見つかり叱責を受け、甲はこれに逆上、所持していた刃物にてBを刺殺した。甲は証拠隠滅のため死体を海に投棄しようと、死体を甲板上へ運ぼうとしたが、途中M国人機関員丙に見つかり、丙は直ちに事態を船長に報告した。
 船長は直ちに全職員に事態を連絡、信頼できるM国人部員数名にも連絡し一同を参集、被疑者である甲の拘束に向かった。甲は事態が知れ渡ったことを知り、抵抗を断念、船長は一同に甲の拘束及び監禁部屋の設置を指示した。また、乙の死体は投棄される前だったので、船長は死体の状態の写真撮影及び冷凍庫への保管の準備を指示し、凶器となった甲の刃物を自ら保管した。その後、船長は機関長、一等航海士、一等機関士同席のもと甲から犯行の状況、犯行の動機等について事情聴取を行い、記録を残し、甲の監禁部屋への監禁を指示した。
 さらに船長は、発生事態、実施した措置、被疑者の状態等について船舶管理会社に船舶電話にて連絡した。連絡を受けた船舶管理会社は、直ちに海上保安庁と事件への対処について協議した。
 犯行は公海上で行われたため、一義的には刑事裁判管轄権は旗国であるL国にあるが、被害者が日本人であるため、刑法3条の2に基づき日本にも刑事裁判管轄権が発生する。また、被疑者の国籍国であるM国の刑法では、積極的属人主義を採用していないため、同国には刑事裁判管轄権は発生しない。
 ここでL国と日本で刑事裁判管轄権の競合が発生するが、海上保安庁は刑法3条の2に基づき被疑者を拘束する方向で船舶管理会社と調整するとともに、法務省に事態を連絡し、外交関係を考慮して、外務省を通じ被疑者の国籍国であるM国、便宜置籍国であるL国との調整を行うこととした。
 
【3月11日】
 外務省は在京M国、L国大使より、日本によるS号への執行管轄権行使を承諾するとの書簡を入手、同省はその旨海上保安庁に直ちに連絡した。これを受け、海上保安庁は被疑者逮捕のため裁判所へ逮捕状を請求、同日中に逮捕状は発付された。
 さらに海上保安庁は本船、船舶管理会社とも協議し、S号を予定通りK国のR港に入港させ、一旦現地警察機関に被疑者を勾留してもらい、その後捜査員を派遣して被疑者を引き取り、日本へ押送する方針とした。(この時点において、実際には、S号乗組員及び被疑者の身体、生命保護の観点から、「保護留置」を依頼することが考えられる。他方、仮拘禁をK国に要請する場合、自国において事前に被疑者の逮捕状の発付を得たうえ、これを基に外交ルートを通じて仮拘禁手続きを要請することになるが、通常K国裁判所において仮拘禁の許可が決定されるまでには相当期間が必要となるため、現実的な対応とはならない。)
 そのため海上保安庁は、外務省を通じてK国政府にR港でのS号船内における被疑者の引き取り、現場検証、被疑者取り調べ実施の許可を申請した。
 
【3月12日】
 K国政府より外務省を経由して海上保安庁へ、同庁によるR港でのS号船内における被疑者の引き取り、現場検証、被疑者取り調べ実施を許可するとの回答が得られた。
 船舶管理会社は海上保安庁と協議し、捜査に協力するためにS号の運航スケジュール調整等を行い、船長に対し、その結果に基づいて今後のS号の行動に関する具体的指示を行った。
 
【3月14日】
 S号はK国のR港に入港、船長は船内警察権を根拠とし、引き続き被疑者を船内に監禁した。
 
【3月15日】
 R港に海上保安庁の捜査員が到着、停泊中のS号に乗船し、船内での現場検証、被疑者の取り調べを開始した。
 
【3月25日】
 現場検証及び被疑者取り調べを終了。捜査員は空路被疑者を日本まで押送し、成田空港到着後、同空港内で逮捕状を執行した。死体、証拠品等についてはK国から空輸で海上保安庁に送付した。
 
<船長の対応>
・被疑者甲の拘束、監禁
・死体の状態の写真撮影、冷凍庫への保管の準備
・証拠品の保管
・船舶管理会社への連絡
・被疑者甲からの事情聴取
・海上保安庁への被疑者甲、死体、証拠品、事情聴取記録の引き渡し


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