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吟詠家・詩舞道家のための
日本漢詩史 第29回
文学博士 榊原静山
江戸時代の詩壇【その五】
山崎闇斉(一六一八〜一六八二)近江(滋賀県)に生まれ、名は嘉、字は敬義、通称は嘉右衛門、闇斉は号である。
 父山崎清兵衛が京都で灸医をしていたので京都で育っているが、子供の頃は乱暴者であったので、延暦寺へ入れられ、さらに妙心寺の僧になり、絶蔵主と名付けていた。そして土佐へ連れてこられ、吸江寺で勉強をしていた時、土佐にいた野中兼山や谷時中から朱子学を学び二十五歳のとき還俗して儒者になり、京都へ帰って塾を開いて門人を教育し、後に垂加神道という新しい神道体系をたて、後世の尊王運動に影響を与えている。著書も沢山残して、天和二年六十五歳で没している。
 
山崎闇斉
 
伊藤仁斉(一六二七〜一七〇五)仁斉は寛永四年京都で材木商をしていた伊藤長勝の子として生まれ、幼名を源七、名は維、字は源佐、仁斉というのは号である。
 別に古義堂とか棠隠とも号した。十六、七歳の時から学者になることを決意し、朱子学を修め、二十九歳で隠棲し、体を病んで十年間も闘病生活をしながら儒学を研究し、名も仁斉と改め、同志会という学問研究所を開き、弟子の数三千人といわれるほど多くの門弟に慕われ、古義堂という自分の塾で四十年間も道を説き、寛永二年三月十二日、七十九歳で没しているが、詩も秀作のものがある。
 
(語釈)簇々・・・むらがり集まる形容。
柴門・・・芝で作った粗末な門。
(通釈)青い山がむらがりそびえてわが家の芝の門に対している。藍色の水をたたえた川が源を遠くに発して溶々と流れている。そこに独り立って、ねぐらへ帰る鳥を数え終る頃には、いつしか川風がそよぎ、月が出て、たそがれの色がただよっている。
 
伊藤東涯(一六七〇〜一七三六)伊藤仁斉の長子で名は長胤、通称は原蔵、別号は慥斉という。幼い時から父仁斉の教えを十分に、しかも素直に受け入れ、当時荻尾徂徠などが立って父仁斉の説に反駁して東涯を誹謗したが、一度もこれに逆らって事をおこしていないほど温厚な性格であり、その性格を慕って非常に沢山の弟子が集まっている。
 中江藤樹の書院に来て、藤樹を讃えた詩が有名である。元文元年七月十九日、六十七歳で没している。
 
伊藤東涯


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