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東の港
慶佐次川の河口付近
 
1. 東村の港の概要
 東村は大正12年に久志村から分離し、有銘・慶佐次・平良・川田・宮城の五カ字からなる。有銘から北側を上方、天仁屋から南を下方と呼んでいる。大正13年には宮城から高江が分離独立した。当初川田に村役場が置かれていたが、昭和20年平良に移され現在に至っている。農産物や林産物の出荷に陸路を利用することはほとんどなかった。陸路を利用する場合は塩屋湾を経て西海岸を羽地・名護へ行くのが普通であった。中南部向けの産物は、ほとんど山原船で泡瀬・西原・与那原方面、さらに糸満・那覇へ運ばれた。与論・沖永良部・徳之島・奄美大島などの道の島への物資の流れも山原船が中心となった(『東村史』第1巻通史編、73頁)。
 東村をはじめ沖縄本島の東海岸の各村々と与那原や泡瀬など中南部の港をつないでいたのは、平安座の船主達が操る山原船であった。山原の村々からは薪や材木、中南部のマチからは主に日常雑貨が運ばれた。平安座の船持ち達は、それぞれ高江と糸満、有銘と糸満、慶佐次と糸満・那覇、平良と糸満・那覇、川田と糸満・那覇、宮城と糸満・那覇をつなぐ航路を持っていた。
 
2. 有銘
製材所や木炭販売所
 有銘の浜には製材所や木炭販売所があり、木炭は戦前からあった。砂糖は林産物との交易品となり山原船が運搬していた。また他の林産物も一旦店(雑貨店)に買い取られてから、山原船の商人と取り引きされていた。戦前、有銘の中心の集落以外の人々は主に山仕事に従事していた。
 
有銘川沿い
 
3. 慶佐次
燃料用の薪を伐採
慶佐次川の河口と集落
 
 慶佐次川を中心として北側の山手部分をミナトバル(港原)と呼んでいる。「山稼ぎ」は戦前から盛んに行われており、戦後、昭和30年代の始めまで続けられている。主に燃料用の薪を伐採するもので、自給中心の農産物とは違い中南部に搬出した。林業は貴重な現金収入源で、字にムラヤマがあり、日を決め共同作業を行った。薪の伐採作業は、薪を中南部に運ぶ山原船の到着を見計らって、前日にサジイが字民に山稼ぎを告げていった。作業の賃金は税金や字費などを差し引いて渡されたが、たいていは山原船が運んできた様々な日常雑貨と交換した。
 伐採した薪は売店に買い取られ、それから山原船に搬入された。また山原船には様々な生活物資が積まれており、この物資は共同売店に買い取られた。売店は「山稼ぎ」の換金場所であり、また山原船の仲介場でもあった。
 
4. 平良
メーギ(薪)置き場
 戦前、山原船がはなやかなりし頃のメーギガー(井戸)と大きなガジマルが公民館横にある。メーギガーはメーギ(薪)置き場の井戸ということで作られた井戸で平良唯一の井戸だった。平良の共同売店でも慶佐次同様、村人が山稼ぎで搬出した薪を買い取り、薪は山原船で中南部(那覇・糸満)に運搬された。また、山原船は様々な生活物資を平良に運んできたが、人々は薪の伐採量に応じて、物資を売店から受け取った。ウスデークの歌に平良を「小湊(こみなと)みやく」と謡っている。
 
平良の海岸
 
5. 川田
川田ヤンマチ
 川田の集落の西・北・東の三方の台地には昭和20年まで老木の松がうっそうと茂り、「川田ヤンマチ」と呼ばれ、山原船航行のためのいい目印となっていたという。かつては山原船による来住者もあったという。その川田では戦前は木材や薪などを沖縄本島の中・南部へ出荷していた。他に、サーターヤーが三ケ所あったが、搾ったサトウキビの汁に石灰を混ぜて凝結させ、その黒糖樽は定期の山原船に乗せて搬出していた。また、人々が共同売店に搬出した薪などの林産物は、すべて与那原と平安座島の山原船に運ばれて那覇で販売された。
 半農半漁のムラではあるが、戦前戦後を通じて漁業及び海運業はあまり盛んではない。林業はシマの人達の換金作物で林業依存度が高い地域であった。与那原船や平安座船などの山原船が往来し、那覇あたりの薪の供給地であった。川田村も地船を持っていて与那原や那覇へ薪や炭を運び、その利益はムラの人達ではなく村(字)の経費や収益や借金の返済に当てたという。廃藩置県後も地船は続いたが、採算が取れず廃止になった。その頃から与那原船や平安座船が頻繁に往来するようになり薪炭を買い占めされるようになった。(『沖縄の民俗資料第1集』33頁)。
 
 
6. 宮城
山原船に乗せて那覇
 『球陽』巻二十、1817年の条に「川田村東方(現宮城)に佐安佐原有り・・・泊舟の港有りて、凡事甚だ便宜有りと」とあり、港として勝手が良かったことが知れる。
 山原船の航行時代には、魚泊(イユドゥマイ)、大工泊、大泊などの投錨地があり、海岸で小さな集落を形成していた。昭和28年の記録を見ると東村で産出される用材と薪の約四割を宮城で生産している。一日2回〜4回山に入り、用材や薪を馬や人の背中に乗せて海岸まで運び、本部落・イノーガマ・魚泊のそれぞれに到着した山原船に乗せて那覇まで搬出したという。薪や薪を売ることは、山原船から運ばれる品物を買うためのほとんど唯一の手段であった。陸路がスムーズになるまでは、日々の食糧から生活物資にいたるまで山原船に依存しなければならない生活状態で、共同売店が出来る以前は生活用品を入手するために、個人が直接山原船との物々交換を行っていたという。
 
7. 高江
馬や人力を利用
 高江は三方を山に囲まれ、林業が盛んな地域であった。馬や人力を利用して一日2回〜6回ほど山に入り、運び出された林産物を海岸の集荷場に集め、毎日、または一定の量に達したら船主や仲買人に売り渡された。
 山原船が往来していた頃の輸送方法は、海岸の集積場から船人(フナトウ)たちによって天馬(ティンマー)と言われる小型の船に積まれ、沖永良部に停泊している山原船に積み替えられて泡瀬・与那原・馬天方面へ輸送された。山原船は天候のよい時には週に一度か十日に一度の割合で、車・下新川・高江・大泊などの海岸から林産物を運んで行き、帰りにはサツマイモ・米などの主食、塩、油、ミソなどの調味料の他、日常生活に必要な物資を運んできた。多くは平安座・泡瀬・与那原・馬天方面の人たちであったが、戦前は高江出身の西銘・仲里といった方が山原船を所有していた。また、戦後の一時期、仲里・高江洲・山城・伊地といった人々が共同で動力船を所有し、中南部へ林産物を輸送していた。
 
山原から出荷される竹


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