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恩納の港
1. 恩納の港
 恩納間切(村)は国頭方(郡)に属し、物資(租税)を陸路で首里・那覇方面に運ぶことは非常に困難であったという。そのために大正6、7年頃までの山原地域の貨物輸送は山原船で行った。主な貨物は砂糖・藍・木材・薪炭・山原竹・竹ガヤなどで那覇や泊方面に運ばれ、帰りは酒や日常品、壷屋の焼き物など町方の品物が積み込まれ運ばれた。
 明治以前は、米などの穀物や砂糖は海路で名護間切の湖辺底港に集積し、そこから那覇・泊港に運んだ。そのとき租税物資を運ぶためのマーラン船(山原船)が村々にあり、村船(ムラブネ)と呼ばれ、二本帆柱で、白い帆を掲げているのが多かった。各村の船の隻数は、名嘉真村0隻、安富祖村一隻、瀬良垣村二隻、恩納村三隻、谷茶村二隻、冨着村二隻、前兼久村二隻、仲泊村二隻、山田村、真栄田村二隻であった。『琉球国旧記』(1731年)に名嘉真・安富祖・瀬良垣・仲泊・真栄田・比留・恩納などの港がみえ、ほとんどの村に港があったことがわかる。『恩納村誌』の資料によると「恩納村(ムラ)は共有船三艘ある為、全く之に積み入れ泊に移出して販売す。泊にては小売又は卸売をなし、其の買主と固より一定せず。瀬良垣・安富祖・名嘉真の林産物は、仲泊・谷茶・名嘉真・前兼久の船持が之を買収して泊・那覇に出す。而して伝馬船は泊に出す、反帆船は那覇に出す」とあり、ムラ(村)の共有船が三隻あること、仲泊・谷茶・名嘉真・前兼久に船持ちがおり、瀬良垣・安富祖・名嘉真の物資を購入して泊・那覇に卸していたことが知れる。
 村船は米や麦だけでなく、その他の物資も運んだ。砂糖・藍・木材・薪炭・山原竹・竹ガヤなどが那覇・泊方面へ積み出された。ウッチンは主に番所所在の恩納港から那覇港まで運送した。帰路は酒・日用雑貨・壷屋の焼き物などの町方製品を積んできた。穏やかな南風の日には数十隻の船が那覇や泊から国頭方面に向って、船橋をかけているように見えたという。
 山原地域の津々浦々に山原船が一、二隻あり、見えない日はなかった。恩納村(間切)は木材や藍、それに砂糖など、他の間切に比べるとそう多くはなかったが、家屋建材の山原竹、薪炭などの需要が多く、その積み出しに山原船が頻繁に往来した。その他の物資として仲泊や前兼久では、港に近い山手から陶土を掘り出し、それを村船に乗せて泊港(那覇)まで運んだ。前兼久の港は比較的深かったので、浜辺に船を横づけすることができたが、仲泊は浅く、陶土の積み込みが困難であった。それを打開するために、浜辺からまっすぐ約200m沖に達する広い溝を掘って船が浜辺につくようにした。
 仲泊の村前の船の出入りする海底の運河をイノー路といい、今でも残っている。船に荷物を積み込むには満潮時の六時間であった。陶土を俵に入れて男は肩に女は頭に、胸まで海水に浸かって積み込んだという。安富祖の白陶土は海辺に接した高い所から産出したので、掘った土を浜辺に落とし、船に積み込んだ。陶土は各自の村船に積み、那覇の泊港に運んだ。泊港からは伝馬船に積み替えて安里川を遡航、崇元寺橋をくぐって壷屋のカーラバンタに陸揚した。
 
竹の産地(『南島風土記』)
 恩納一帯は竹の産地にて山原竹の名、古来籍甚せり。屋根の下の木舞に使用する女竹の事なり、若竹(真竹)は安富祖の特産という。
 くばや金武くばに竹や安富祖竹
やねや瀬良垣にはりや恩納
(金武節)
 この歌はくば笠の製造に事寄せたる俚謡にて金武クバに安富祖真竹を取りあわせ、骨組は瀬良垣、張り方は恩納という意味なり。
 
蔡温杣山法
 真竹三年之間伐取候ては、性弱殊更竹絶之基にて、四年以上之竹相用候被仰付置候、・・・相背候者一人に付銭三十貫文申付
 
 恩納間切に個人所有の石伝馬船が九隻あった。石伝馬船の帆は蒲帆であったため、マストに揚げるのに数人の人手を必要とするほど重かった。積み荷はスゲ草でつくった苫(トマ)で蔽っていた。この船は重く、船足が遅く、操作も難しかった。仲泊から伊平屋島に藁を買いにいって、帰る段になって北風がなく三か月も足止めを食ったり、那覇の泊港から仲泊に向かった石伝馬が、舵で仲泊に向ける事ができず本部の渡久地港に着いてしまった。数日待ったが風がなく陸路で帰ってきたという。石伝馬船は、操るのにそれほど困難な船であった。
 また、国頭村で木材を那覇まで運搬して一儲けしようとした仲泊船が、松以外の椎や樫の木を伐採して、木材を浜まで運び、さらに船に乗せ、北風に乗って那覇まで運ぶのに三ケ月も要した。満載した木材を売って、国頭での滞在費などを差し引くと利益は微々たるものであった。それでも海上で活躍していた石馬伝船であるが、陸路が整備され荷馬車が活躍するようになると、石馬伝船は次第に陰を潜めていった。
 軽便嘉手納線が開通した頃には、荷馬車による運搬が主流となり海上運搬はますます下火になって行った。潮濡れの構わなかった竹ガヤや薪炭などは、それでもまだ海上交通に頼っていた。
 
前兼久の恩納漁港(平成11年)
 
2. 美留(ビル)港
 ビル港は塩屋にあり、残波岬と山原地域との航路に近く、天候が悪くなると山原船の避難港となった。港は河口にあり、前面に港を抱きかかえるように小島(ビル離れ)がある。ビル港は水深もあり、東西南北、いずれの方向からの風があっても平穏を保つ港であったという。そのため、避難港として古くから知られ、真栄田・塩屋の貢納物やその他の積み出し港となっていた。
 
3. 久良波(旅客帆舟)
 旅客帆舟は旅人が利用した舟である。首里・那覇から多幸山を通り恩納に入ってくると、遥か向こうに名護湾や本部半島が見えてくる。しかし陸路をとるより、潮で濡れたり渡しの舟賃を支払わなければならない面倒を考慮しても、時間が陸路より短い海上交通をとった。そのため久良波から舟を利用する渡海交通が発達した。久良波から帆掛舟で名護、屋部・本部・今帰仁方面へ渡るのだが、多幸山を日暮れに通過してきた者は、久良波で宿(今帰仁宿小・本部宿小)を求め、翌日徒歩か小舟を利用した『恩納村誌』)。
 
4. 仲泊港
 仲泊は交通の要地で、恩納間切(現在の村)の物資(砂糖、薪、木材、豚、陶土)の外に、伊波・石川・山城・東恩納一帯の砂糖・薪炭類、豚などの積み出し港になっていた。これらの物資は山原船で那覇・泊方面に運送したので、仲泊の浜辺には常時十隻内外の船が出入りしていた。貢納運送用としての村船が二隻あったが、その他に九隻の仲泊の人所有の山原船があった。
 砂糖は伊波あたりからヂャージャー馬小に150斤の砂糖を二丁乗せて仲泊まできた。浜辺に砂糖仲買人達の倉があり、県道の開通に伴って県道筋に移され、船運送から荷馬車運送、嘉手納から軽便鉄道で運ばれるようになった。そのため海運業は下火になった。それでも竹ガヤや薪炭などは海上運搬に頼っていた。
 運ばれてきた物資は、山原船で那覇・泊方面に運送され、仲泊の浜辺にはいつも十隻内外の船が出入りしていた。仲泊には貢納運送用の村船が二隻あり、その他に九隻の仲泊人所有の山原船があった(『恩納村誌』623〜624頁)。
 
難破船一隻 大正2.4.23
 沖縄国頭郡本部村字崎本部一六六、池宮城秀慶所有同人船頭三反帆琉球形帆走船一隻は去る廿日舸子三名乗り込、那覇港を発し恩納村字名嘉真津口へ航行中午前十一時頃読谷山村字宇座沖合にて風波の為め顛覆し□れど乗り込員四名は直ちに伝馬船に乗り移り、沈没船の始末をなし居る最中午後一時頃、名護より来航の汽船運輸丸の日野船長に発見救護されたり。
 
5. 恩納間切の唐人墓
 道光4(1824)年、恩納間切に中国船が漂着するという事件があった。『中山正譜』にはこの事件が以下のように記されている。
(大意)
 「道光5年、呂正等乗組員32名が商船一隻に乗り、泉州府(福建省)の同安県を出発したが、海上で暴風に遭い、船がひっくり返り26名が溺死、呂正等6名は水桶に入って漂流し、幾日か経って、恩納間切の仲泊沖にたどり着いた。だが6名の内5名は既に死亡しており、呂正一名が生き残るだけであった。そして遺体を埋葬してほしいと記し、自分の死を待っていた。しかし(これを発見した者によって)呂正は即刻岸に引き上げられ、粥を与えられるなど手当てを受け、ついに回復し、陸路にて護送され、(那覇の)泊村に到着した」
 死亡した5人の遺体は「漂着した場所付近、すなわちテラ岡下の旧県道傍に長方形の盛土墳をなし、石碑が立てられていた。これを唐人(トーンチュ)墓といっていた。この墓は戦後旧県道拡張改修によって消失してしまったが、石碑だけは少し位置は変わっているが史的記念物として残してある」(『恩納村誌』)。
 碑文には「福建省泉州府同安県難民□□水櫃飄来」とあり、続けて「呂仁、呂春、呂孝、洪貴、胡明」と5名の埋葬者の名前が記されており、「道光四年十二月初六日立」と石碑の立てられた年号が見える。
 
 この時期、福建省泉州府からの漂着船は他に道光元(1821)年に2回、道光5(1825)年に一回が記録されているが、死亡した者はわずか1名だけで、31名もの死者を出したこの仲泊の事故がいかに大きかったかということが知れる。また漂着船の記録には江南省蘇州府と福建省泉州府の船が多く、当時この二つの地域が琉球との海上貿易で大きな役割を担っていたことが伺い知れる。仲泊の石碑に記録された呂仁、呂春、呂孝、洪貴、胡明の5名、名前も記録されることなく死亡した26名と唯一生き残った呂正は、そのような歴史の状況の中に存在した人物たちであった。
 
恩納村仲泊にある唐人墓の碑


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